画廊匠
画廊匠は、1986年5月から1988年3月までの約2年間自主企画運営画廊として存在した。
当時の沖縄には、画廊が多数あったが、そのほとんどが貸し画廊であった。画廊匠は作家を中心にその支援者を含めて会費制で運営し、作家と評論家が企画し展示を行うスペースとして独自のスタンスで活動を行なった。
私は、この画廊匠に企画担当の会員として設立準備から参加した。その立場から、設立に至る経緯を含め、活動全体を振り返ってみたい。
画廊匠との出会いから企画運営画廊設立まで
私は、1982年4月に琉球大学教育学部に助手として採用され沖縄に来た。最初に住んだのは、宜野湾市大謝名の外人住宅である。
時々、大山にある孔雀楼に食事に行っていて、近くにあった「画廊喫茶 匠 」の看板が気になり入ってみたことがあった。おそらく赴任したその年の秋頃だったと思う。
入ってみたら、喫茶というよりは居酒屋風で、長居はしなかったが入口すぐ横の壁に李朝民画の文字絵が掛かっていて、なかなか良かったので、欲しいなと思った。
まだ大学に職を得て早々だったので余裕はなく、その時は、まぁ止しておこうと帰ったが、やっぱり気になり、後日、購入しようと再訪した。
しかし、もう売れた後だった。お客さんからの持ち込みの商品だったらしく、特に李朝民画を扱っている訳でもなく、たまたま掛かっていたという話で、自分が優柔不断だったのを悔いた覚えがある。
1983年4月に、那覇市の県民アートギャラリーで、自己紹介の展覧会「永津禎三 絵画(1976−1983)展」を開いた。ここに、画廊喫茶 匠のオーナー宮島都紀雄さんが観に来てくださった。宮島さんとはこの時が初対面だった。
宮島さんは私の作品をとても評価して下さって、匠で展覧会をすることになった。『月刊美術』という雑誌で、出身大学の愛知県立芸術大学で非常勤をしていた時の作品が紹介されていたのもご覧になっていて下さった。
画廊喫茶 匠 では、1983年11月1日〜23日に絵画とボックス作品の新作展、1984年12月24日〜1985年1月23日に版画展と、二度展覧会をさせていただいた。
画廊喫茶 匠 は会期が長いのが魅力で、絵画とボックス作品の新作展は3週間あまり、版画展はお正月休みはあったものの、ひと月開けていただいた。
文化人の常連さんも多く、作品を買っていただくことも時々あった。
展覧会を開催している間はもちろん、日頃からよくお世話になっていた。簡単に言えば、よく呑みに行っていた。
1986年の1月か2月頃、宮島さんから相談を受けた。今、ちょっと経営が危ないと。画廊喫茶の継続が難しいとの話だった。
その頃、出身地の名古屋でグループ展を開催していた時、美術評論の三頭谷鷹史さんや名古屋芸術大学の茂登山清文さんと知り合った。彼らはちょうど『美術読本』という小冊子を発行しているところだった。
そういう交流から、日本各地で新しく起こっていた動き、作家やそのグループが自分たちのスペースを持って活動している、自主企画運営画廊の動きなどを知ることが出来ていた。
宮島さんから相談された時、経営的に厳しいのであれば自分たち作家が月々幾らかずつ会費を払ってその作家たちの自主企画運営画廊としてこの場所を使ったらどうかと提案した。宮島さんは賛成して下さった。
琉球大学に私が来て以降、84年9月に丸山映先生(教養部)、10月に奥田実先生(教育学部)が赴任された。丸山先生は彫刻、奥田先生は陶芸が専門だった。1年半の間に実技系の教員が3名新しい顔ぶれになったことになる。
私が、宮島さんに自主企画運営画廊を提案できたのも、おそらくこの同僚は趣旨に賛同し参加してくれるだろうという展望があったからだ。
もう一人、今の私の妻(当時はまだ結婚前)、禮子は旧姓が照屋で、私が赴任する2年前から、琉球大学に織染の技官として勤めていた。この計画にも賛成してくれていて、何かと相談していた。
沖縄でちゃんと美術批評をできて参加してくれそうな人はいないのか相談したところ、翁長直樹さんという人がいるというので、仕事先の読谷、古堅中学校まで会いに行き、参加してもらえることになった。
その翁長さんから山内盛博、宮島さんからは、1960年代、前衛活動のグループ耕のメンバーだった大浜用光と写真家の大城信吉の各氏を推薦していただいた。
賛同者としては、匠の常連だった宮城信博さん。宮城さんは大著『八重山生活誌』を著した宮城文さんのお孫さんで、当時、都市計画コンサルタントの会社を経営されていた。後にエッセー集『北木山夜話』や小説『弦月』を著された教養人である。
主宰が大浜用光、企画が翁長直樹、丸山映、大城信吉、奥田実、照屋禮子、山内盛博、上地昇、永津禎三、運営が宮島都紀雄、宮城信博のメンバーでスタートした。後に大嶺實清、伊江隆人、吉川正功、斎藤美土、高良勉が加わった。ただ、実際は幽霊会員もいる。
企画展を月に一回開催し、その都度リーフレットを発行することを原則とすることを決めた。
まずは、改装準備の会費を3万円ずつ出し合い、業者に頼んで旧内装を取り外し、床板張りと壁板張りをしてもらった。
壁は厚手のベニヤ板を張るだけにしてもらい、壁塗りは全て自分たちで行なった。改装費用を抑えるためでもあったが、メンテナンスを考えてもいた。
壁面に直接、作品を展示したくても、多くの貸ギャラリーは釘も打てない条件であったから、匠の空間は実験的な展示も可能な自由な空間にしたかった。
まだ大学は、文部省から改組を押し付けられる以前の、のんびりとした時代だった。授業以外はそれほど仕事もなく、充分に研究や創作に時間をかけられる余裕があった。春休みの期間中、ほぼ全ての時間をこの改装に注ぎ込んだ。
スペースは、かなり長細い26.4㎡の展示室と奥に9.9㎡のティールーム。ティールームには米軍払い下げ屋から2台のバタフライ・テーブルを誂えた。
1986年4月23日に、自主企画運営画廊としての画廊匠のスペースをお披露目するパーティーを行なった。
86企画−1 丸山 映 展
1986年5月1日〜6月1日
自主企画運営画廊としての第1回展は、丸山映展。石彫の小品11点とドローイング4点の展示だった。小品と言っても、石彫なのでかなりの重量である。
記憶には残っていないが、記録を調べてみると、当初、第1回展は、グループ展を検討していたようである。会員4名と外部から1〜2名の合計5〜6名での展覧会を構想していた記録が残っている。
しかし、3月に入ってから会議を始め、改装を経て、5月に第1回展というスケジュールでは、グループ展の企画を練り、作品を準備するには時間不足であっただろうし、何より、1984年10月に琉球大学に赴任以来、まだ一度も作品を沖縄で展示していない丸山映の作品を、小品でもまとまった形で見てもらいたい、ということだったと思う。
実際、真っ白な新しい空間に、黒御影石を中心にした丸山映の彫刻の展示は見応えがあり、作品への評価も、また、新しい形の画廊の活動にも期待が集まる展覧会になった。
86企画−2 大浜 用光 展
1986年6月3日〜6月29日
第2回展は、主宰である大浜用光の「絵画」20点の展示。しかし、その「絵画」には絵具は使われず、キャンバスに薄く塗った土をバーナーで焼いたものだという。
不定形に焼け焦げたものを再度キャンバスに貼り付けたものもあり、必ずしもオールオーヴァーな空間を意識したものではない。
土だけでなく、樹脂や金属粉を混入したものがあり、私にはこれらの作品が非常に危いものに感じられたが、詩人の高良勉にとっては、「禁欲と緊張感」と感じられたように、観るものによってその捉え方が異なり、そのことが観者の価値観を揺さぶるものであったのであろう。
当時の私にとっては、この「絵画」に移行する以前、大宜味村の江洲にこもっていた頃に焼いたという素焼きの陶板が、色気があって魅力的なものに思えた。
何故か、この展覧会の会場写真が紛失している。もしも、撮影された方がいらっしゃれば、写真を提供していただければ有り難い。
86企画−3 「'82沖縄の夏」 展
1986年7月1日〜7月20日
第3回の展覧会は、画廊匠の評論担当:翁長直樹による企画展「'82沖縄の夏」で、出品作家は川平恵造、山内盛博、屋良朝彦であった。
人は風景をどのように「見ている/見させられている」かを問い直す狙いで、沖縄の風景が一変した「復帰」を契機に、70年代後半から活動を始めた若い作家たちが復帰後10年を経過した時期に描いた「風景」を再考してみようという意図の展覧会だった。
3名の作家はそれまでの沖縄における風景画の文脈と異なった語彙で「新しい風景画」を描き始めた。皆「現実そのものに対して強い不信感があるか、現実を実態として考えていない」故に、実際の風景からでなく写真から描いている、と翁長は解釈した。
写真から描くということは共通しているが、三者三様の狙いやスタイルを持っており、その彼らの作品から何が問いかけられているのか再考するのが一つの趣旨だった。
同時に、私たちが「視ること」について、例えば、「生の風景」を見ることの可能性を美術作品を通して考えることがもう一つの趣旨であったと思う。
リーフレットに載せられた翁長の文章は明確にこの問いを発していたが、果たして、この問いは観客や作家に届いていたのかどうか…。
出品作家と企画者をパネリストに、シンポジウムを行えばよかったと今では思う。
86企画−4 永津 禎三 展
1986年8月9日〜8月31日
第4回は私の個展だった。UTAKI Seriesの13点を展示した。
画廊匠の間口が狭く奥に長い空間では、普通は大画面の作品の展示には向かない。準備期間が短かったが、適当な新作の小品を数多く作ることも嫌で、この空間の活かし方を考えた。
匠の再生に関わる以前に仕上がっていた作品は、縦194cm×幅448cmの UTAKI Series Sumazu-3 。SumazuからKarimataの2作に移っていた時だったので、この大画面Sumazu-3 が気持ち良く観れるKarimata の作品をどうすれば良いのかを考え、コーナーを連続する大画面という構想になった。これが Karimata-3 である。
間口の狭さを意識させることなく、二つの大画面作品を観ることのできる気持ちの良い空間を成立させられたのではないかと思う。
この後、屏風形式の作品に進むきっかけにもなり、追い込まれながらも結果を出すことが出来たのは自信になった。
UTAKI Seriesになってから、場への関わり方が明確に私のテーマになっていた。透視図法的な視覚ではない自然への接し方。いわば体験的風景画とでも言えようか。この個展を行った時には全く意識していなかったが、この前の第3回企画展、翁長直樹の「生の風景」への一つの応答になっていたことに、後になって気付いた。
86企画−5 奥田 実 クレイワーク 展
1986年9月5日〜9月28日
第5回目の企画展は奥田実クレイワーク展だった。奥田は、1984年10月に琉球大学教育学部の陶芸の教官として赴任し、沖縄で最初の個展を那覇の物産センター画廊で1986年に開催したばかりだった。
その時の出品作が、リーフレットに掲載されている。〈銅青釉の器〉〈白鳳釉獣足の器〉と題された作品は、ギリギリ「器」の機能を残した殆ど陶オブジェというべき作品だった。
陶土も釉薬も県外から取り寄せた材料を用い、京都の出身らしく、草泥社の陶オブジェを想起させる作品は、これまで沖縄では観たこともなく、新鮮な衝撃を持って迎えられた。
奥田は、画廊匠の実験画廊としての可能性を最大限活かしたいと考えたようだ。
企画展の名称にクレイワークと加え、前回の物産センターでの作品とは全く異なる陶へのアプローチを試みた。スポンジに泥漿を染み込ませ焼き上げ、これを画廊空間の奥の方に吊り下げ、まるで浮遊しているかのように演出しようとした。
一方で、手前の空間では、壁面に直接取り付ける形で、身体の一部を型どりはめ込んだ方形のオブジェを展示した。
短期集中型の作家タイプらしく、直前まで徹夜続きで窯出しまで持って行ったようで、搬入展示が終わった直後に、そのまま画廊の床で眠ってしまった姿が印象的だった。
86企画−6 大城信吉写真展 −浜から−
1986年10月1日〜10月26日
1986年の10月から11月にかけて、私は県外での展覧会に出品する機会が多かった。
そのため、この大城信吉写真展は、殆ど、もう一人の企画担当であった翁長直樹に任せきりだったようだ。
そのため、ここでは、リーフレットに載っている翁長直樹の文章と大城信吉の写真から記さざるを得ない。
翁長直樹「愛・外傷・真実」の文章は、前半、写真史の復習のようである。そういえば当時、翁長とは、写真黎明期の歴史などについてよく話していた。
文章の後半は、ロラン・バルトを引き合いに、写真の「真実」について語っている。
ロラン・バルトにとっての母の「真実」の写真は、数ある写真の中にたった1枚だけ見つかるのだが、他人にとっては見分けがつかない。本人の「心をかき乱す」写真を他人は判断できないというのである。
私も暫く後になって、写真を自分の作品に取り入れることになった。「物語」を成立させるために写真を必要としたからである。
しかし、写真単独で何の解説もつけずに観者に訴えることのできる写真を撮ることは、自分にはおそらく不可能だろうと思った。
これだけ、多くの写真が溢れている中でも、1枚の単体だけで感動できる写真は本当に数えるしかない。
大城信吉が写真を撮り続けるのは何故なのか。翁長の言うように、「心の傷」なのか。それは他人にも分かるものなのか。この個展での作品を通して語り合えなかったのを残念に思っている
86企画−7 大嶺 實清 "陶” 展
1986年10月28日〜11月16日
前述のように、この年の10月〜11月中旬は県外の展覧会のため、私は企画に参加できていない。この大嶺實清"陶"展のリーフレットには詩人の高良勉が評論を書いていて、他の企画展のようには個展の内容を把握できない。一巡するまでは翁長直樹が書くということだったと思うが、このようになった経緯も分からない。
そのため、新聞の記事を参照し、この個展の状況を記しておきたい。
この画廊匠での個展では、当時の工房の作品のようなロクロ成形ではなく、手びねりの作品のみで、土の風合いにこだわり、三角錐を途中から切ったような形の用途を観者に委ねる作品等にオブジェを加えた17点の展示だったようだ。
86企画−8 新里 義和 「カイ」 展
1986年11月18日〜12月7日
第8回目の企画展で、初めて会員外の作家である新里義和の個展を開催した。
大学を卒業してまだ2年ほどの若い作家だった。在学中から注目すべき作品を制作していて、卒業後、那覇工業高校の非常勤講師をしていた。高校の美術準備室で制作しているというので訪ねて行って、その作品の質の高さと旺盛な制作意欲に圧倒された。画廊匠でまず紹介すべき若手作家だと確信した。
「カイ」展は、インスタレーションの作品だった。沖縄で最初期のインスタレーションであったはずだ。画廊のそこここに波で洗われ丸くなった珊瑚や、流木が立てかけられ、束ねられた枝が吊るされていた。しかし、その展示の主体となっていたのはあくまでも平面作品だった。
平面作品と言っても、琉球松を輪切りにした木口面に彩色されたものであったり、合板を巻き貝を想起させる形に切り抜いたものに彩色したものであって、いわゆる四角の絵画ではない。
それらは、珊瑚や流木と共にインスタレーションの一部として、違和感なく存在していたが、やはり、平面作品としての良質な絵画空間も保持していた。
翁長はそれを、ニューマンやロスコに比し、カラーフィールドペインティングに相通じ、それが「崇高性」の感情を呼び起こすと論じたが、私には、例えば巻貝を想起させる形態の作品は、仏像の光背の残欠のように見えた。
新里の作品は、このように観者にさまざまな類推を呼び起こさせる、曖昧ではあるが、実に魅力的な作品だった。
86企画−9 山内盛博 SUKIMA 展
1986年12月9日〜12月28日
1986年の最後の企画展は、山内盛博SUKIMA展であった。
開口した3cmほどの厚みを持った薄い箱型の底面に幾何学的な形態を描き、箱の開口面に張られたスクリーンに底面と少しずらした形態を描く。形態はカラフルなグラデーションで描かれている。不思議な奥行きが感じられ、観者が動くと、それに伴ってそこには無いはずの幾何学形態の厚みが感じられる。
山内は、ミニマリズム以降の絵画の在り方について、彼独特の理論を持っていて、作品のスタイルを幾度となく変化させている。このSUKIMAシリーズに移行する以前にも3度ほどのスタイルの変化があった。
しかし、このSUKIMAシリーズは、彼の一つの到達点と言って良いだろう。この後も、さらにスタイルを変化し続けているものの、その起点として明確に認識できるのが、このシリーズであり続けているからだ。
この個展でギャラリーの正面壁に展示されていた〈SUKIMA 4〉に大変感銘を受けた私はこの作品を譲ってもらい、今も自分のアトリエの壁に展示している。
私の最近作のポジャギとの不思議な親縁性も感じつつ、暫くはこの作品は私のアトリエの大切な要素になり続けるだろう。
なお、1986年9月から10月にかけて、名古屋の Gallery Space to Space において、Okinawan Artist Works 展を開催した。山内の個展会期は9月15日〜27日で、美術手帖1986年12月号のART '86(展評)に取り上げられたことを付け加えておこう。
87企画−1 伊江 隆人 展
1987年1月1日〜2月1日
1987年の企画展は、元旦からの伊江隆人展で始まった。画廊匠の壁面三面を全て覆い尽くした墨象作品〈天地のとき〉を主作品とする個展である。
伊江は、小学校の校庭などで度々墨のパフォーマンスを繰り広げる。そのような躍動感が画廊空間の中に持ち込まれ、閉じ込められた感があった。
閉じ込められた感があるのは、分割され嵌め込まれた木枠のためだろうか。
正面の、縦横斜めに分割された作品は「海」の文字であろうか。僅かではあるが各面の位置が前後するように展示されていた。向かって左壁面は「◯△□」仙崖などの禅僧がよく揮毫する「文字」である。そして、右壁面は、浸された墨の濃淡が施された布の上に不定形の墨象作品が貼り付けられた。この貼り付けられた墨象は一見「文字」とは判読できない。
墨象が、「書」つまり「文字」からどこまで、どのように離れるのか、墨象に向き合うたびに常に考えさせられる問題である。
87企画−2 86年度 琉球大学教育学部美術工芸科研究生 展
琉球大学教育学部は、1989年度まで大学院を設置していなかった。
そのため、卒業後も作品制作を継続したいと考える人の多くは、研究生となった。
研究生は自分の研究テーマに沿った研究を半年間(4単位)または一年間(8単位)自主的に研究するのみで、4年次の卒業研究での「卒展」のような発表は義務付けられていなかった。
「自主企画運営画廊」画廊匠が存続した中で、2年度に渡り「研究生展」を開催できた意義は大変大きい。「卒展」とは異なる、ひとりの作家としてのデビューの個展を開催する機会を準備し後押しできたからである。
Vol. 1 仲間 伸恵 展
1987年2月3日〜2月22日
仲間伸恵が学生だった1983年、京都で紙会議があり、京都国立近代美術館では「新しい紙の芸術−アメリカ」が開催された。その出品者の一人であるキャロライン・グリーンウォルドがアメリカンセンターを通して琉球大学で講演会を行った。また、1985年2月にはマリー・ライマンが来沖し、「和紙−現代美術に与えたそのインスピレーション」と題された琉球放送文化講演会が開催された。これらが、紙の仕事へ仲間伸恵を導いたのは間違いない。
この匠での個展の後、彼女は京都市立芸術大学大学院に進学し、そこで紙造形作家の伊部京子と出会い、長らくそのスタッフとなるが、40歳になる直前に、故郷の宮古島の上布が危機的な状況になっていることを案じ、一念発起して、宮古島に帰った。
そこで、上布を織る技術も身につけ、さらに上布の原材料となる苧麻で紙を漉き始め、伝統的な技術の継承と新しい紙の造形という二つの方向性を矛盾なく実践している。
2013年度からは母校の琉球大学の教員となり、後進の指導にあたっている。
仲間伸恵は、まだ研究生だった1986年に、先輩の金城馨、新里義和に誘われ、画廊沖縄で三人展"表面から物質へ”でデビューを果たしてはいるが、個展としては本展が初めての発表であった。
Vol. 2 田里 博 展
1987年2月24日〜3月15日
田里博は、2019年4月23日に55歳という若さで亡くなってしまった。痛恨の極みである。前年度まで沖縄県立芸術大学教授を勤めていて、体調を理由に早期の退職をされたと聞いていたが、まさかの訃報だった。律儀な性格で、研究熱心、これから円熟味が加味されたときどれほどの作品が生まれてくるのか大いに期待していた矢先だった。
その彼の初個展である。リーフレットに寄せられた指導教員奥田実の紹介文が、当時の、そしてその後の彼を過不足なく語っている。ここに再掲させていただく。
清々として 奥田実
田里博の飛鉋は端正である。染付も几帳面なら、釉裏紅も生真面目、勿論器形に崩れたところは無い。生硬だが、初々しい印象を与える。それが、古今の作品を見慣れた眼には、少々物足りなく映るかも知れない。所謂 "味" に欠けるのである。然し、それも若さ故の潔癖さから、意識して "味" を排しているのなら、今暫くはその気持ちを大切にしたい。何故なら、時間と経験は狎れを生み、狎れは否応無く作品に "味" を加えるものであるから。もし、彼の気持ちがそうでないのなら、時には "味" にも思いを回らせて欲しい。決して茶陶の真似をする事ではない。意識の片隅に潜む天の邪鬼の声に耳を傾けるだけで良い。常道を無視し、セオリーを忘れろと囁いている筈だから。
何はともあれ、新しい技法と素材は、彼の感性を揺振り続けたに違いない。その一つの答えが今日の作品群である。奇を衒わないその清々しい作品が、大方の好感を持って迎えられる事を信じて疑わない。
Vol. 3 中田 久男 展
1987年3月17日〜4月5日
中田久男は研究生を2年間続けた。私が担当した中で他に誰も2年間研究生だった人はいない。1989年度からは大学院も出来たが、彼の場合、大学院修了のための単位を取る授業もなく、まるまる自分の研究テーマに沿った制作だけを行っていた訳で、その仕事量は膨大なものであった。
中田はタブロー絵画から離れ、いわゆるドローイングを制作の中心にした。その集積から生み出され醸成された彼の内的世界は実に芳醇なもので、それを若者らしいセンスで程よく配置した展示は、画廊匠の2年間の全展示の中でも特に優れたものであったと思う。
中田は学部在学時代から、学習塾の講師で生計を立てていて、卒業後も、全く変わらないペースで制作活動を維持してきた。この画廊匠での個展ののち、暫くは東京で暮らし、数年後、故郷の奄美大島に帰って家庭を持った。その頃、私は奄美大島に彼を訪ねたが、学生時代と全く変わらない、淡々とした生活ぶりで、制作も継続しているようだった。
奄美大島といえば、田中一村が暮らし、制作を行なっていたことが思い出されるが、彼は幼少時代、田中一村を見かけたことがあると言う。
田中一村は当時の画壇とは関係を絶ち、奄美大島で数年働いて生活費を貯め、それが尽きるまで制作だけに打ち込んだ人である。
これは私の妄想に過ぎないが、中田なら、彼の生活の中で淡々と描き貯めた作品群をいつかまとめて公開し、世間を驚愕させるのではないかと密かに期待している。
琉球大学の絵画室で、画廊匠での展示に向けて準備する、左から中田、田里、仲間
87企画−3 知花 均 展
1987年4月7日〜4月29日
知花均は琉球大学を1983年に卒業し、すぐに愛知県立芸術大学大学院に進学した。そして、1986年に開学した沖縄県立芸術大学に職を得て帰郷、その8ヶ月後にこの個展を開催した。
知花にとっては試行錯誤の時期だったようだが、綿布にパステルと木炭で描かれた大作3点とエッチング(コラージュ)6点での展示は、何度も描かれ、消され、また描かれた線の痕跡による、真摯な絵画空間の追及であり、その後、独自の手法となる、コーヒーなどをアクリル絵具と共に用いた複雑なレイヤーによる豊かな絵画空間を創造するための「準備」であったと思う。
残念ながら、会場写真が行方不明なため、リーフレットに閉じられた、オリジナル・シルクスクリーン版画を掲載しておく。
大変有難いことに、知花氏本人から会場写真を提供していただいた。シルクスクリーン版画と差し替えようと思ったが、この版画も、当時の「lines」のコンセプトを明確に表しているので、会場写真を追加するだけにした。
改めて会場写真を久しぶりに見て、「作品は壁に直貼りではなかったのだな…」など記憶を修正する楽しい時間を過ごせた。
知花氏から会場写真を提供していただいた際に、〈現在、あの画廊匠での個展がご自身の中でどのように
意味付け(位置付け)られるか、コメントをいただければ、是非掲載させていただきたいと思っています〉
とお願いしていた。
お忙しい中、次のようなコメントをいただきました。感謝しつつ、掲載させていただきます。
1987年 画廊匠 個展
知花均
26歳の時、大学院を修了して2年後の仕事でした。綿キャンバスを壁に留め、生成り色の肌に未踏の砂漠のような空間を感じながら利き手に木炭を取り画面に作用させ、空間を感じつつ次なる一手を入れていく・・・。消しゴムやガーゼで作用させながら、行為の経緯、時間の蓄積を作品化できないかと。その求めに乗じて臨んだ仕事は徐々に暗く、奇妙で得体の知れないものになっていった。
振り返れば、自身に課したストイックな実験のようなものであった。個展で披露するには難があったように思う。がしかし、今振り返ると、このラインズ・コンポジションの仕事については、やり残した感もある。「行為の経緯」を植物の姿・成長を借りてその先へ進める仕事がある、そう考える感覚がそれである。脱線するので続きは割愛します。
その後、1989年頃には描く行為でなく、貼った和紙をカッティングで抜いていく、言わば消去法によるドローイングを考案し、ダイヤモンド・ブラック、薄様和紙をクリーム色のファブリアーノ紙に貼り、カットしたストライプを剥がし、「剥がし残しの図像」に原風景と身体のモジュールのダブルイメージで探っていくことにつながっていく。「水平線考シリーズ」の連作を東京の新橋で発表し、以降、変遷をたどりながら個展を継続していくことになる。
感謝をひと言。美術家による自主共同経営の画廊が当時、琉大講師の永津先生を中軸に琉大の助教授や市井の美術家、写真家、陶芸家、県外の著名な美術家らの交流拠点を、琉大の学生たちと創り上げた創造力はすばらしく感激にたえない。今の時代であればなおさら、1980年代の画廊匠のような動きは、自立自尊を謳歌する若い表現者を鼓舞し刺激するように思う。(2022年6月23日)
87企画−4 グループ 展
part 1 大城信吉 大浜用光 永津禎三 丸山映 山内盛博
1987年5月1日〜5月17日
part 2 伊江隆人 大嶺實清 奥田実 照屋禮子
1987年5月19日〜6月4日
開廊1周年展として、二期に分けてグループ展を行なった。リーフレットの翁長直樹の文章は、画廊匠の1年間を振り返り、より実験的画廊として活動する決意を表明していた。
また、この企画展以降、会場写真の撮影は私の仕事でなくなったため、私が所有する写真は、自分が企画に参加したか撮影を依頼された場合、作家から寄贈していただいた場合のみである。
87企画−5 岡崎 乾二郎 展
1987年6月6日〜7月5日
岡崎乾二郎展を画廊匠で開催できるとは全く考えになかった。何と言っても、現代美術のスターである。ところが、翁長直樹と高校生の頃から友人だったらしい。
一周年を飾る企画展としてこれに勝る展示は無かっただろう。
岡崎はちょうどアメリカ滞在から帰国して間がない時期で、ドナルド・ジャッドのテキサス州マルファのプロジェクトや彼の家具・建築の話、ホイットニー美術館で開かれたシェーカーの家具展の話、岡崎自身の作品について立花隆『宇宙からの帰還』から引用された解説など話題が尽きず、展示にとどまらず、琉球大学で講演会「モダニズムのゆくえ」まで開催していただいた。
画廊匠での展示作品は購入可能で、私は、会場右壁奥の作品〈かきお〉を購入した。
マルファの話を聞いたばかりだったからか、岡崎の他の作品に比べ、構造が単純なのがその時は良いと思った。
しかし、金沢21世紀美術館で2018年に開催された「起点としての80年代」で久々に岡崎のこの時期の作品をまとめて観て、やはり、あの時、〈あかさかみつけ〉のような作品を買っておくべきだったと悔やんだ。
当時は、岡崎の作品の立ち上がる二つ(ないし三つ)のほぼ平行な面の微妙な傾き(手前の方がやや狭くなることが多い)の意味がちゃんと理解できていなかった。金沢21世紀美術館でこれに気づき、やはり岡崎の作品の真骨頂はこちらだったと反省したのである。
87企画−6 奥田 実 クレイ・ワーク 展
1987年7月7日〜7月26日
画廊匠での第一回目の個展では、奥田は奥に長いこの空間を、正面から眺める開口部のある一つの箱として舞台装置を組むように構成した。その展示空間に身を置きながら、すぐに次の構想を練っていた。
第二回目のこの個展では、その開口部を閉じた。扉が三つあり、それぞれに陶器の取手がついている。この扉を開けると、中には棚にちょうど良く収まった作品が何段もある。取手と中の作品は対応しているので、次の扉を開けるときには、この取手の扉の中にあるものはどんなものなのか想像を巡らしながら開けるのが楽しい。
ところが、真ん中の扉を開けるとそこは狭い通路で、この通路を進むと…
中の床には無数の作品が並べられ積み上げられている。
私は箱の中に入ってしまっているのだ。
87企画−7 安谷屋美佐子 展
公開制作 1987年8月11日〜8月23日
展示 1987年8月25日〜9月6日
この安谷屋美佐子展は私が提案し実現した企画展である。
1985年1月画廊喫茶フィガロ、5月沖大市民ギャラリー、1986年3月県民アートギャラリーと続けて、安谷屋のインスタレーション作品を観てきた私は、安谷屋の「成り立ちは、高さとか奥行きとか深さ、軽さといったものだけにしたい」という意図が、ここ画廊匠でなら実現できるのではないか、それが実現した空間を体験してみたいと思った。
そこで、「公開制作」を提案した。2週間の公開制作と2週間の展示という、これまでにない形である。
結果は…、実験的画廊としての可能性を確かに感じることができた。
公開制作には琉球大学の学生が大いに関わってくれて、その創作現場を楽しんでくれた。何より、「ただ空間が存在する」ように見せるための、安谷屋の入念な計画や素材の選択について、この制作過程をつぶさに観察する機会を持てたのは何物にも変え難いものだった。
また、私にとっては、リーフレットの評論を書かせていただいたことも、大変有り難い経験になった。
87企画−8 山内盛博 SUKIMA 展
1987年9月8日〜10月4日
前年12月の個展から9ヶ月後の山内の第二回目のSUKIMA展である。
今回のリーフレットでは、作家自身が自作品を語っている。山内は理論家であり、冷静に自作品の分析を行なっているが、作家の論理というものは、やはり一種独特の回路で展開する。このように、作家が作品制作と並行して言語で考察することは大変重要で、言語の限界というか、言語化しても抜け落ちてしまう部分を自覚しながら作家は作品を制作するものであると思う。
一方で、客観的な批評家の目で、この9ヶ月の山内の作品の進展を評価することも必要だったのではないかと思う。そういう意味では、やはり、翁長直樹の批評もこのリーフレットには欲しかった。
作品は、前回の継続であるが、より洗練度が上がった。反面、やや作品の強度は弱まった感があった。
87企画−9 87 SUMMER 沖縄 − 比嘉豊光 写真展
1987年10月6日〜11月1日
比嘉豊光に初めて出会ったのは、おそらく1982年か83年、彼が大宜味村の江洲で喜納賢二の窯を手伝っている時期だった。そのため、彼が写真家であると思っていなかった。
画廊匠の企画で翁長直樹が彼の写真展を提案し、それで初めて写真家であることを認識した。その展示はスライドショーで、数百枚のスライドが次々上映されていくものだった。
会期中に、そのスライドの写真の中からプリントされた写真を20枚程いただいた。
そのときになってやっと、良い写真を撮る人なんだと認識を改めた。
時にノーファインダーで撮られることもある彼の写真は、さりげなく日常を写したものも多い。いただいたプリントの写真は塩屋などの祭事や、その土地の風景が多く、しかし、比嘉の気負わないスタイルで、少年の素の表情を捉えたりしていてとても良かった。
その後、「あーまん」のこと、60年代の写真を見せていただき、なるほど、写真家というのは猟師のようなものだなと実感した。農耕の民である画家(私)とは異なる人種なのだと思った。
その狩人に、今でも私は翻弄され続けている。
87企画−10 金城 馨 展
1987年11月10日〜12月6日
画廊匠が自主企画運営の形態で活動を行なっていた当時、豊平ヨシオが、勤務先の沖縄大学で「沖大市民ギャラリー」の企画運営を行なっていた。
当時、若手の元気の良い作家は、この「沖大市民ギャラリー」と「画廊匠」の両方で個展を開催していた。金城馨もその一人である。
沖大市民ギャラリーで、フランク・ステラからの影響を感じさせるレリーフ作品を発表した金城に、画廊匠でも発表しないかと誘った。
この企画展のリーフレットは、彼の作品が設置された画廊匠の会場写真が使われていて、評論も金城馨本人のものだ。おそらく、会期が始まってのちに発行されたものだろう。
沖大での作品と異なり、色彩は抑えられ、素材感が前面に出て、床面を強く意識した作品に変わっている。金城は自作の評論の中でこれらの変化について冷静に分析し論述していた。
琉球大学卒の若手の中で、金城は兄貴的存在だったのだろう。後輩の新里義和と仲間伸恵を誘い、画廊沖縄で三人展 "表面から物質へ” を開いた。当時の沖縄で「彫刻」の定義について真剣な考察を行なっていた数少ない存在だった。
養護学校(特別支援学校)に勤務を始めてからは、彼は朝妻彰や今村清輝らと「アートキャンプ」の活動に邁進する。「素朴の大砲」展の開催を精力的に重ね、アウトサイダーの作家を発掘・支援することに情熱を燃やした。
その彼が病に倒れ、長期の入院生活を送っていると人づてに聞いた。回復を祈るばかりである。
87企画−11 仲間 伸恵 展
1987年12月8日〜12月27日
京都市立芸術大学学大学院に進学した仲間は、またそこでさまざまな体験をし、帰郷する度にそれを語ってくれた。その中で最も記憶に残っているのは、中近東への旅行の話である。特にカッパドキアに行ったのは羨ましかった。
作品は、研究生時代からの進展であるが、入手しやすかったためか吉野紙の使用が多くなっていた。
実は吉野紙は沖縄でもよく使われていた紙だった。漆を漉す時に用いられたからである。それでも既に仲間が大学院の頃は、漆漉しは合成紙を使うのが普通になってはいた。
吉野紙は繊維が一方だけに走っていて、そちらへの引っ張りには強いが、直交する方向にはすぐに裂ける。紙縒り(こより)のようにして蜘蛛の巣のように編み上げた構造が出てきたのは、この素材ゆえか、あるいは作品を大型化し、空間的な表現にしたかったからか。
確かに、翁長直樹がリーフレットの評論に書いたように、荒々しさも感じられる展開になってきていた。
88企画−1 山城 茂徳 版画展
vol.1 1988年1月8日〜1月17日
vol.2 1988年1月26日〜2月7日
企画担当の翁長直樹と作家の山城茂徳との間で、どのような合意があったのかは分からないが、この企画展だけリーフレットが発行されなかった。
展示は二期に分かれ、part 1は Print in the Box、part 2は on the Box のシリーズとなっていた。
part 1、part 2 共に、細長い矩形が斜め又は真横に区切られ、その区切り方にいろいろなパターンがある。そのパターンによって、ある種の立体感を感じてしまう視覚の面白さがあった。
part 2 の on the Box は、白い縦長の厚みのある箱の前面のみに、このパターンが色彩も加わって刷り上げられていた。あくまでも平面の版画面のイリュージョンと現実の白い箱の奥行きを対比させたかったのかもしれないが、奥に細長い画廊匠の空間ではこの箱の奥行きが圧迫感として強くなりすぎていたように感じられた。その点、床置きの方が見やすく、これを壁にあるものと取り替えることを観者に許せば良かったのかもしれない。
88企画−2 阿部 健二 展
1988年2月9日〜3月6日
画廊匠で開催した2年目の琉球大学教育学部美術工芸科研究生展である。この年度は阿部健二がただ一人の研究生だった。
阿部は学部4年次の卒業研究では、リトグラフを制作した。その下絵として描いていた水彩画が表現手段に変わった。複数制作できる版画より、イメージを錬金していく方向に興味が移行し、水彩画のもつマチエールの魅力にも引き込まれたのだろう。
生来の器用さも活かしながら、1年間の研究生期間の仕事量は目を見張るようなものになった。そして、イメージの錬金も強度を増した。
この後、彼は郷里の宮崎県都城市に戻り教職につきながら、地道に制作を継続している。
2007年1月には、都城市立美術館で開催された開館25周年特別企画展「南九州の現代作家たち メッセージ2007」に招待され、絵画作品とともにそこから抜き出したような立体作品も出品した。工作少年の本領発揮といった立体作品はまたもう一つの可能性を示していた。
88企画−3 照屋 禮子 展
1988年3月9日〜3月20日
この企画展を最後に、自主企画運営画廊の活動は終了した。
最後の展覧会を開催した照屋禮子は設立準備段階からの会員で、1年目から個展開催を勧められていた。沖縄の織りや染めの世界では、若手が個展を行うことは稀なようで、準備を念入りに行いたかったこと以外にも、そのような意識が働いていたのかもしれない。最後になったとはいえ、照屋の個展が開催できて良かった。
その展示も、入念に計画構成され、画廊空間を活かした斬新なものだった。
いずれも、糸は染められず、織の構造で美しい布の表情を作り出し、照明を効果的に用いた美しい配置の展示によって、影も作品の一部となるよう細やかな配慮がなされていた。
照屋は、ファイバーワークに対する理解と問題意識に優れ、伝統的なものを生かしつつ、布自体の美や織の本質を追及している。
これまで、画廊匠では、多くの優れた個展を開催できたが、最後に、照屋の個展で締めることができたのは僥倖と言えよう。
自主企画運営画廊「匠」の終焉とその後
画廊匠の終わりも、宮島さんからの相談だった。いよいよ立ち行かなくなったと…。会費の納入がかなり酷くなっていたらしい。金銭的な問題は勿論ではあったが、会費を払わない会員が増えてきたというのがやはり厳しかった。
実は、運営の宮城信博さんはとても積極的に応援してくださっていたので、金銭的な部分だけだったらなんとか出来ると仰って下さっていた。
しかし、会員の気持ちが離れてきているのなら宮城さんに無理していただいて続ける意味はないと思った。
2年目の画廊匠は11回の企画展のうち、会員の個展は3回のみ。グループ展で9名の会員が出品してはいるが、残りの7回が会員外の作家の企画展だった。
私や翁長さんは、岡崎乾二郎展や安谷屋美佐子展を企画することが出来、実験画廊としての企画の面白さを味わえた。また、琉球大学卒の若手や中堅の作家の展覧会を実施出来て、琉大教員は企画に参加していたが、その他の会員の多くは2年目にあまり積極的でなかった。
もっと、他の会員に積極的に企画を依頼すればよかったのかもしれないが、後の祭りだった。
もう一つ。画廊匠の隣に巨大商業ビルが建つことになり、今まで駐車場として使えた空き地が無くなってしまうことになった。ここには大きなマンゴーの木が生えていて、匠の2年目初夏に鈴なりの実が成った。植物は、自分の存在が危うくなると、子孫を残すためやたら実をつけるというが、建設工事まで察知したのなら凄い。
つまり、立地条件の悪化も重なった訳である。
画廊匠という場所は消えてしまったが、ここでの経験は活かして行きたいと考えていた。
共に企画の中心を務めた翁長直樹さんと、常にこれらの企画を支援しご自身の実験的な個展を2回開催された奥田実先生に呼びかけ、場所がなくても学習の場を継続したいと話し合った。
そこで浮上した案が、芸術総合誌の発行である。この三人+αで編集委員会を結成し、季刊程度で発行できないか相談した。誌名を『marginal』とすることも決め、創刊号の準備を進めた。
創刊号の表紙デザインもほぼ決定し、特集は、〈自主企画運営画廊「匠」2年間の活動を問う〉とし、その座談会を画廊を閉めた年1988年の8月5日に行なっている。
画廊匠で培った関係を活かし、美術以外の「音楽」「映像」「文学」「建築」「環境」などの分野にも寄稿を求めた総合誌とする構想だった。
しかし、やはり経験不足だったのだろう、座談会まで行なっておきながら、この総合誌はそれ以上の進展がなく発行されないまま終わった。ひとつには、琉球大学教育学部に大学院設置が控え、以前のようにのんびりとした環境でなくなってきたこともあったかもしれない。
定年退職を控えた2019年1月頃、研究室の片付けをしていた時に、この座談会の録音を起こした原稿を発見した。未定稿の原稿ではあるが、ここに掲載する。
発行されなかった幻の芸術総合誌『marginal創刊号』
画像をクリックすると「座談会」の未定稿原稿が読めます。