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上村 豊

 上村豊さんは、2020年7月10日帰らぬ人となってしまった。まだ54歳だった。痛恨の極みである。

 彼は、2006年に琉球大学に赴任してきたので、私は約14年間、同僚としてずっと接してきた。2019年3月に私が定年退職した後、絵画分野を引き継いでもらっていた。

​ 7月11日の通夜には、名古屋からご両親も駆けつけていらっしゃって、遺されたパソコンの中の、撮り溜められていた写真を見ながら彼を偲び、思わず長居してしまった。

 翌日はご家族でゆっくりしていただこうと思っていたら、喪主を務めていたパートナーの平良亜弥さんから電話があった。

 告別式会場のスタッフの配慮で、会場入り口のスペースで、彼の作品を飾ることができる。研究室から彼の作品を選んで運んでもらえないかという依頼だった。

 簡単な事ではないなと思いながら、私は、妻の禮子と二人で主のいない研究室に入った。

 彼の研究室の壁には、恩師の榎倉康二のポートレートがあった。榎倉氏も若くして東京芸大在職中に亡くなっている。恩師のポートレートと言ってもそれは若々しい写真だった。

 上村さんの作品は、マップケースの中に綺麗に整理収納されていて、予想したよりも作品の選定は困難でなかった。

 壁面に展示できそうな「ドローイング・コミュニケーション展」に出品されていた作品と、やはり活動の中心だった「桐生再演」のドローイングを探した。

 マップケースの中の「桐生再演」のドローイングを見て驚いた。それはとても美しい水彩ドローイングと写真だった。

 上村さんの採用時のポートフォリオでその存在は知ってはいたものの、実際の作品の美しさまでは認識できていなかった。私たちは作品に見惚れ、夢中で選んだ。

​ やっと運び出すものを選んで、これから告別式会場に向かおうとした時、亜弥さんからLINEがあった。

 「あまり無理をせず。無ければパソコン内にある写真をスクリーンに映写してくださるようです」

 「とんでもない、大収穫! 」と電話した。声で興奮が伝わったようだ。

​ 夕方、会場に着き、作品を広げると、ご両親も喜んでくださった。「桐生再演」のドローイングや写真作品、資料などを置くテーブルも調達していただき、急な対応にしては、なかなか良い展示が出来たと思っている。

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 8月2日に Library & Studio #504 二階アトリエの引越し荷物の整理をしていたら、2011年前島アートセンター解散シンポジウムの時に、上村さんが作ってくれた、Single Malt Tasting Bar Maejimaの全案内ハガキを印刷した大垂れ幕を発見した。一階入口正面のブロック壁に貼り付けてみた。なかなかに壮観である。

 上村さんが赴任したのが、ちょうど私が副学部長に指名された頃で、前島アートセンターの理事を続けるのが難しくなり、上村さんに交代して引き受けてもらった。

​ 2011年の解散シンポジウムまでの6年間、本当に前島アートセンターのために尽力していた。解散シンポジウムでの資料整理の奮闘ぶりなど今でも目に焼き付いている。​

 7月13日の告別式でも、コロナ禍で参加の叶わなかった人たちの弔電に桐生での活動で本当に上村さんにお世話になったとのお礼の言葉が溢れていた。桐生でも沖縄でも上村さんはずっと人のために尽くしてきたのだろう。

 8月4日にこの大垂れ幕のことを亜弥さんに報告したら、田中睦治さんからメッセージをいただいたと返信が来た。

 東京芸大油画第2研究室の方が中心になり、榎倉康二先生の奥様が開いている東京のギャラリーSPACE23°Cで上村さんの追悼の展覧会を行う計画があるとのこと。思わず、研究室のポートレートが目に浮かび、胸が熱くなった。

​ 2020年10月10日から上村展実行委員会に参加している。当初は、上村さんの一周忌に展覧会を開催するつもりだったが、新型コロナ感染症の蔓延で予定が何度も変わり、今は、2022年6月17日から7月10日まで、金・土・日開廊の12日間の日程を予定している。

 ほぼひと月に一回開いているZoomでの実行委員会会議は、東京時代の上村さんのことや周りの方々のこと、桐生での活動、その前身であった白州での活動のことなど、具体的な展覧会準備はなかなか進まないものの、上村さんを「識る」ための大切な時間である。

​ また、田中睦治さんと亜弥さんが上村作品の写真撮影を行い、その隣で、私が上村研究室の図書の整理を行うということも数ヶ月続けている。

​ いずれも、上村さんと対話しているような時間だ。

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芸大大学院時代の上村さん(前列左端)その横に榎倉康二氏。四尾連湖にて​(長橋秀樹撮影)

​SPACE23°Cでの「上村展」開催に向けた準備の中で

 私のホームページに上村豊さんを取り上げることについては、いろいろ考えることがあった。

 実行委員会で上村さん追悼の展覧会を行うことを話し始めた初めの頃には、Facebookなどで展覧会について情報発信することも話題に上った。私のHPもそのような役割を担えるかもしれないと考えたこともあった。

 しかし、「FOCUS」で取り上げた他の方々のページを作るうちに、私はこの方々とのこれまでの関わり(展覧会で作品を観たり、お宅にお邪魔したり、研究について意見を交わしたり)を通して、自分自身の思索を深め、更新しているのだと気付いてきた。この方々との出来事を思い出し、それについて改めて考えてみることは、実に豊かで温かい気持ちになれる時間だった。

​ 上村さんの遺された仕事については、いずれ沖縄でまとまった形で展覧会を開催することを夢見ている。それまで(もしかしたらその後も)このHPで上村さんと語り続けていけたら…、と思う。

​ おそらく、とりとめのない記述になるだろうが、まずはSPACE23°Cでの「上村展」開催に向けた準備の中で気付いた事柄を書き綴っていこうと思う。

受験生時代の上村さんのこと

Episode 01

 田中睦治さんが上村さんの受験生時代、河合塾での先生だったこともあってか、Zoom会議では、受験生時代の話もよく出てきた。日比野ルミさんは、高校の同級生だったので「上村くん」と呼ぶ。その日比野さんから「上村くんの浪人時代のデッサンが見たい」というリクエストがあったので、私がスマホで撮影して送った。(ちゃんとした写真は田中睦治さんが撮影している)

​ ここまで描けないと入学できないのかと呆れるほどの超絶技巧の受験デッサンと一緒に、少し異質な、厚紙に描かれた蝉の作品があった。

​ もちろん上手すぎるほど上手いのだが、私が知っている沖縄での上村さんの感覚とほぼ同じものを感じる。これが受験生時代のものだったのなら、もう、こんな感覚が備わっていたのか…。別の意味で凄い。​

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skskトークのDVD

Episode 02

 上村さん出演の「skskトーク04」(2013年7月14日)のDVDを石垣克子さんが提供して下さったので、実行委員会のメンバーで共有した。(2021年5月頃)

​ トークの中で、上村さんは、この時 sksk で行われていたdraw2展に出品していた「緑の鉢」シリーズのコンセプトについて次のように語っていた。

「緑の鉢」ドローイングのコンセプト

 「緑の鉢」というのは、吾妻公園温室プロジェクトという、もう10年以上前に始まった、1997年からなので、20年近く前に始まったものから、モチーフとしてはずっと続いています。

 

 このsksk draw2 展に展示している、右端の作品が一番古いものですが、あれも「桐生再演」で吾妻公園温室プロジェクトが終わったずいぶん後の2005年くらいに京都で開催した「庭に水を遣る」という展覧会の時の直前に描いて、あれを描いたときに初めて「緑の鉢」というタイトルを付けたのです。

 

 鉢が並んでいる状態のドローイングを、なんか、たどたどしく描いたんですけど、単純な事ですけど、鉢と鉢の間の形も鉢なんだなと思ったんです、その時ね。

 もともとは隙間として緑を塗っていたんです、抜ける空間として。でも、あっ、こっちが鉢だなという気がしたんです。絵を描いているときに。

 

 「緑の鉢」というのは、緑が植わっている鉢じゃなくて、隙間の緑の方が鉢だよって意味なんです。そのちょっと逆転しているようなものが、自分の制作のひとつのモチーフ。

 さっきの「吾妻公園プロジェクト」の、鉢を温室から移動する。温室は空っぽなんですけど、そこにあったものは、どこにあるかは分からないんだけど、普通の街の中に並べられているはず。

 というようなことと、絵として逆転しているようなことが噛み合って、ドローイングのモチーフとしても「緑の鉢」というのが出てきたということです。

 

 時が移って沖縄に来て、去年のドローイング展に出すということで、全然違う動機で描いていたんですけど、作っていたら、また鉢が…、無意識にというか多分意識しているんですが、そういう形に見えてきた。

 これは、作っている本人にとっては凄く面白いことですけれども、そういう面白さを、普通のドローイングの形として見せられないかなというのが、この「緑の鉢」シリーズのドローイングの基本的なコンセプトです。

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DM案の話し合いをきっかけに考えたこと

Episode 03

 昨日のZoom実行委員会で、やっと展覧会に向けての具体的な内容の検討に入った。(2022年3月13日)

 6月17日からの会期、11日、12日の搬入展示なので、さすがにもういろいろ決めていかないと間に合わない。

​ 展示のプランについては、長橋さんと景山さんが提案して下さった内容をベースに、沖縄側4名で1週間前に集まって決めた提案がほぼ了承されたので、これから個々の作品選択に入ることになる。

 DMについても話し合い、日比野さんが印刷原案を担当してくださることになった。使用する図版は右の「路地の構造2004」の写真になった。

​ この話し合いの中で、田中睦治さんは上村さんの遺したポートフォリオの「主作品について」に書かれた内容から、この写真を推薦した。そこに書かれていたのは以下のようなものだ。

通    トオリ

表    オモテ

角    カド

内/家  ウチ

庭    ニワ

街の構文を読み取りたい。そして、その文法を捉えたいのだ。

そんなことを考えながら歩き回っているのだが、私の眼前に現れるのは個々の事物と風景や「ものがたり」ばかり。それらは「街」と私の意識との間で反射を繰り返すばかりで、「私」の入り込む余地などこれっぽっちもないのだ。

私の求めているのは、例えば翻訳者、2冊の国語辞典を携え、その2ヵ国語の間に引き裂かれる、翻訳者の身体(からだ)なのかもしれない。

​ この文章を読んで私は、ジュンパ・ラヒリの『べつの言葉で』を思い浮かべた。不自由さを逆に創作の源泉にしようとする意思に、共通する美しさを感じたからではないかと思う。

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「庭に水を遣る」2005年の作品について

Episode 04

 3月16日に琉球大学に四人が集まり、13日のZoom会議の内容を確認して今後の作業予定を話し合った。その後、まだ撮り終えていなかった作品の撮影を行った。

​ この日撮影したのは、先日沖縄側から追加展示を提案した、2005年京都のギャラリーそわかで開かれた個展「庭に水を遣る」の出品作だった。

​ skskトークで上村さんが語っていた「緑の鉢」シリーズのドローイングが含まれていて、この後、2010年のドローイング・コミュニケーションにも出品していた水彩4点を23°Cでも展示すれば良いのではないかと、話し合いながら撮影した。

 私は、「sksksトークのDVD」での上村さんの発言〈「緑の鉢」ドローイングのコンセプト〉から、そこで話されていた「右端の作品」は、シリーズの中で一番シンプルな、横一列に三つのピンクの鉢が並び、間に出来た二つの空間が緑の鉢になっている作品だと思ってその図版を掲載した。

 でも、亜弥さんに「主催者の石垣さんに会場写真が残っていないか聞いてみたら」と言われた。確かに、それなら間違いない。

 この個展には、「緑の鉢」シリーズの水彩ドローイングの他に、「窓」シリーズと「グラス」シリーズの水彩ドローイングの他に、やや小ぶりのスケッチ5点と「鉢の配置についてのエスキース」12点組がフロッタージュ作品とともに展示されたようだ。

 上村さんの遺したポートフォリオには「主要作品一覧・概要」にこの「庭に水を遣る」について次のような記述がある。

 3月から4月にかけ、桐生森芳工場に滞在して制作をおこなった。同施設の庭をモチーフとした連作。放置された踏み石や庭石、井戸の櫓などを題材にフロッタージュを行い、また、庭の風景を描いた水彩によるドローイングなどを制作。展示会場に再構成した。いわゆるホワイトキューブでの展示は、初めてに近い体験で、固有の「場所」をテーマにした作品をどのように移行して展示するかで苦労をした。

 しかし、ポートフォリオの図版のページには、「鉢の配置についてのエスキース」12点組は2002年制作とあった。このエスキースは写真が小さくてあまり気にかけていなかったのだが、今回の撮影でしっかりと見ることができた。

​ このエスキースの一枚には、「庭におけるインスタレーション 緑の鉢」とはっきりと書き込まれていた。

​ つまり、skskトークで「2005年くらいに京都で開催した『庭に水を遣る』という展覧会の時の直前に描いて、あれを描いたときに初めて「緑の鉢」というタイトルを付けた」というのは、本人の錯覚だったのか、あるいはインスタレーションのエスキースへの書き込みであって「タイトル」ではないということなのだろうか。

 どちらにしても、すでに2002年、「路地の構造2002(山の温室/街の倉庫)」の頃、「緑の鉢」という概念はすでに存在していたということになる。

 さらに興味深いのは、このエスキースの「「庭におけるインスタレーション 緑の鉢」の上にある図には「鋸屋根 空の鋸屋根」と書き込まれている。どちらもが、物と空間の関係、空間の方も物と同様のものであるかのように「視る」という概念が明確に表明されているのだ。

 私は、この「鉢の配置についてのエスキース」からも数枚、23°Cの展示に加えたくなった。

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draw 2 での展示作品が判明

Episode 05

 石垣克子さんが、draw 2 展の会場写真を送ってくれた。​よくぞ、探し出してくれた。そして、この写真は私にとっての「意外」に溢れている。

 まず、右端の2点である。skskトークで語っていた2005年の作品は、この2点だった。京都のギャラリーそわかで展示されていた「緑の鉢」水彩ドローイングの5点のうち、実に意外な2点の選択だった。

 私の予想していた作品は、最もシンプルな横一列の作品だった。次に、もしかしたらこちらかもしれないと思っていた作品は「窓」シリーズと一緒に展示されたものだ。その2点を右に示そう。おそらくこの2点は「緑の鉢」水彩ドローイングの2005年作品の最初と最後だと予想している。

​ 2013年の draw 2 展に、最もコンセプトが明快な最初の作品と、最もそのコンセプトを展開したであろう最後の作品を出品せず、中間的な2点を選んだのは何故だろう。

​ 次の「意外」は、この2005年の2点の「緑の鉢」ドローイングの展示方法である。​このドローイングは、茶色のクラフト紙を台紙にしていて、draw 2 展では、そのクラフト紙の台紙のまま直に壁に展示していた。

 特に上のドローイングの台紙は、端がちぎれたような状態である。上村さんの研究室のマップケースから、この状態で見つけたのだが、まさかこのまま展示したとは思っていなかった。

 それは、2010年のドローイングコミュニケーション展(沖縄県立芸術大学附属図書・芸術資料館)で展示されていたときには、大きなカルトンにこのクラフト紙の台紙ごと4点が配置された展示方法だったからだ。

​ クラフト紙のちぎれたような状態や、不揃いな感じを同系色のカルトンに収めることで目立たなくしているものと思っていた。

 東京のSPACE23°Cでの展示では、白い壁にこのクラフト紙の台紙は目立ちすぎるので、ドローイングのみにするよう台紙を剥がせないか話し合っていたくらいである。

 上村さんは、そんなことは気にしていなかったようだ。

​ 沖縄に来てからの「緑の鉢」ドローイングの右の作品は、このskskでの draw 2展の後、2013年のドローイングコミュニケーション展(沖縄県立芸術大学附属図書・芸術資料館)で展示されていた。

​ 同じ作品なのだが、違っている。

​ 緑っぽい矩形の縦横比が違っている。一瞬、別作品なのかと思ったが、よく見比べれば同じ作品である。

 上村さんのこの頃のドローイングは、一旦、線や水彩での着色の後、横に長い帯状に作品を切り、左右に交互にずらしながら張り込んでいく手法をよく行なっている。線は、大工さんが墨壺で材木に墨付けをするように藍色の絵の具で線を施すことが多い。実際の制作現場を見たわけではないが、おそらく藍色の絵の具に浸して絵の具を染み込ませた糸をピンと張り、それを摘み上げて手を離すとこのような墨付けのような表情の線を得られるのだろう。少し滲んだような線の周りにかすかに絵の具が散っている、ニュアンスに富んだ線である。このため、帯状の着色された紙片はひとマスごとに左右にずらされて、まるで編まれたかのような厚みを感じさせるイリュージョンを生んでいる。

 さらに、この帯状の紙片の元になる着彩を施すとき、その紙の下に水彩紙を置き、四方にはみ出した筆跡を作品として活かしている。

 つまり、sksksの draw 2 展で出品した状態は、帯を5本貼らない状態だったのである。

​ 私は、この draw 2 展の状態が絵画的な感じがして、かつ、システムが分かりやすくて好きである。何故、この後のドローイングコミュニケーション展では、全ての紙片を貼ったのだろう。才気に走りすぎるのを抑制したのだろうか。

​ この時に上村さんは何を考えていたのだろうか、想像は無限に膨らみそうで実に楽しい。

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draw 2 展での上村作品 (石垣克子撮影)

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私が予想していた2点

実際に展示されていた2点

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2010年ドローイングコミュニケーション展での展示

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「緑の鉢」(2012-2013年)2013年skskの draw 2 展での展示

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2013年ドローイングコミュニケーション展での展示

SPACE23°C(東京展)の展示作品を選ぶ

Episode 06

 4月4日、5日に沖縄の実行委員会メンバー4人が集まって、展示作品を選んだ。507室の上村さんが教室を仕切るために立てた壁面がちょうど良い大きさだったので、ここに順番にギャラリーの各壁面ごとに仮展示しながら選んでいった。

 ギャラリーに入ってすぐ左手の第一壁面(D壁面:2.7m)に、2005年「庭に水を遣る」(京都ギャラリーそわか)の作品を展示することは予め決めていたので、その中のどれにするかを話し合った。

​ 水彩ドローイングは、やはり、skskで本人が選んで展示していた2点にして、「鉢の配置についてのエスキース」(2002年制作)の12点から8点を選んだ。

 次の第二壁面(E壁面:2m)には、上村さんの遺したポートフォリオのA4サイズのページを4枚、〈無題(自宅・浴室におけるインスタレーション)1989年〉〈無題(両国駅構内におけるインスタレーション)1993年〉〈無題(桐生市有鄰館の扉への制作)1994年〉〈園六織物工場の9日間 1995年〉に決まった。

 A4版を4枚の展示だけでは寂しいかと当初は思ったが、インスタレーションの写真に力があるので4枚で綺麗に纏まっていた。D壁面に奥行き60cmの資料台を壁面の端から端まで設置してもらうことにしたので、これ以上展示するのは厳しいだろう。

​ ギャラリー正面になる第三壁面(A壁面:4.8m)には、〈吾妻公園温室プロジェクト〉と〈路地の構造〉を中心に選ぶことを決めていた。

 1997年のドローイングには、〈「吾妻公園 温室プロジェクト」プランドローイング〉とそれ以前のものと思われる〈プランドローイング(桐生市 水道公園・観月亭におけるインスタレーション〉の二つのシリーズがあった。

 両方とも魅力的なドローイングばかりだったのだが、今回は「吾妻公園」に絞って展示することに決めた。1997年(桐生再演4)のものは、ポートフォリオからの2枚とドローイング11点にした。1999年(桐生再演5)のものは、ポートフォリオから1枚、水彩紙のドローイング4点にした。

 その右に(今回の仮展示では壁面の4.8mがとれなかったのでここでは右壁面)〈路地の構造2002(山の温室/街の倉庫〉、〈路地の構造2004〉それぞれポートフォリオから2枚ずつを選んだ。

 第四面(B壁面:4m)には、「NEWS 2002」展(東京藝術大学大学美術館・付属陳列館)で展示された〈路地の構造ドローイング展示 2002年〉の大型カルトンをそのまま展示することに決めていた。この壁面には、この大型カルトンが収まるよう幅171cm、奥行き10cmの棚を設置してもらう。B壁面とC壁面の角にはモニターが設置され、「skskトーク04」が放映される。〈路地の構造〉のドローイングと関係がありそうな写真(両掌を広げている)を展示することも話題にあがったが、大型カルトンの横では違和感があり、何か違った意味まで出てきそうなのでやめにした。

 最後に、第一壁面(D壁面:2.7m)に設置してもらう資料台の上の展示を相談した。当初は、『うみしまノート』や上村さんが沖縄で著した論文の掲載された冊子、装丁を上村さんが担当していた琉球大学附属図書館発行の「びぶりお文学賞」の作品集1〜13号なども展示したいと思っていたが、いざ並べてみたら、桐生再演のカタログだけで一杯になり、両国のリーフレットだけを加えることにした。

 展示作品の選択は、かなり難航するのではないかと予想していたので、この後、11日と12日も確保していたのだが、意外にもすんなりと2日間で決めることができた。1年半、毎月話し合ってきたから、四人の間で意思の疎通ができていたからだと思う。

 新型コロナ感染症蔓延の期間に、ポートフォリオと吾妻公園温室プロっジェクト冊子を直接手に取って見ていただくことが出来ないので、会期中YouTube配信するビデオを吉田先生と制作した。

 当初は、ページターンのエフェクトを使って編集したらどうかと考えていたが、亜弥さんのアドバイスで、実写で良いのではないかということになった。

 展覧会終了まで期間限定で、このHPにもビデオをアップするのでご覧いただきたい。

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上村豊 ポートフォリオ

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吾妻公園温室プロジェクト

全て荷造りして送ったはずだったが…

Episode 07

 5月23日から作品の梱包作業を始め、27日に2個口の宅急便で、静岡県の長橋さん宛に送り出した。作品は大型カルトンにまとめ、復路まで耐えられるようプラダンで荷造りした。2日後、富士山を背景にした美しい写真と共に「無事到着」のメッセージが届いた。これで一安心。あとは、6月5日(日)に最後の上村豊展実行委員会Zoom会議で確認作業をして、11日(土)の飾り付けのために東京に行くだけだと思っていた。

 ところが、6月2日(木)。最近、毎週木曜日には、沖縄県立博物館・美術館で内間安瑆の作品を閲覧させてもらっている。そこに、LINEの着信音が立て続けに鳴り、何事かと思って見たら、亜弥さんからの興奮気味の文面。

 なんと、これまで探していたのになかなか見つけられなかった、skskで展示された「緑の鉢」2012-13年の2点が見つかったという連絡だった。

 石垣克子さんは、現在、琉大で上村さんが担当していた絵画の授業の非常勤講師をしてくださっているが、その授業を行なっている507教室の入り口ドアの横に置いてあったのを見つけたらしい。

 しかも、このタイミングで!

 まるで、「おーい。これも持って行け!」って上村さんが言っているみたいだなと思った。

 そのうえ、送ってくれた写真は、なんと帯を5本貼っていない状態。

 〈私は、この draw 2 展の状態が絵画的な感じがして、かつ、システムが分かりやすくて好きである。何故、この後のドローイングコミュニケーション展では、全ての紙片を貼ったのだろう。才気に走りすぎるのを抑制したのだろうか。

 以前、こんなふうに書いていた。つまり、skskのdraw 2 展の方がドローイングコミュニケーション展の後だったのを間違えていた。

​ これについてのエピソードもありそうというので、後から石垣さんに連絡しようと思ったら、石垣さんから先にLINEが来た。〈ドローイングコミュニケーション展は会期が2013年5月15日〜19日、skskのdraw 2 展は6月29日〜7月20日。〉

 沖縄県立博物館・美術館から帰宅し、早速、LINEで返信した。

〈507室で「緑の鉢」が見つかったことは亜弥さんからも連絡がありました。そして発見の写真も! それを見たら、下5列が外れた状態(私の好きな状態)だったので、二度ビックリ。でも、私が展覧会の開催順を間違えていたのですね。辻褄が合いました。

 ところで、なぜ外れたのか(外したのか)もう少し詳しく知りたいので、電話してもよろしいでしょうか? 〉

 電話で確認したところ、意図的に外したわけではなく外れてしまったよう。

 draw 2 展のDMに上村さんの作品写真を使おうと思って、撮影に行ったら、外れてしまっているのを目撃したらしい。

 

 この状態を良しとしてその外れたままでdraw 2 展に出品したのは間違いないにしても、これを肯定的に捉えていたのか、修復するには問題があったためなのかははっきりしない。

 今回発見したフレームの箱の中には、その5本の帯も入っていた。あいにく白蟻が入ったらしく数箇所は汚れ欠損していた。

​ でも、skskの展示の時には、それほど傷んでいなかっただろう。私は、上村さんが「この状態もまた良し」以上に、こちらの方が良いと思っていた(つまり、私の価値観と近かった)と信じたい。

 6月5日、上村豊展実行委員会Zoom会議では、結局、2点とも搬入し、どのように展示するかは、搬入当日、現場にいる人に任せてもらうことになった。

 翌日の6日にまた、プラダンを使って梱包し、長橋さん宛に送った。今度の梱包は、結構可愛く出来上がって、気に入っている。

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長橋さんから送られてきた、富士山を背景にした搬入作品の梱包荷物

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亜弥さんから送られてきた、発見した作品の写真

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外れて箱の中にあった、ドローイングの5本の帯

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いよいよ、搬入当日

Episode 08

 6月11日10時に、SPACE23°C会場で搬入飾り付けを始めると決めていた。

 沖縄メンバーからは亜弥さんと私、東京メンバーからは、長橋さん、景山さん、大村さん、横井さんが参加。

​ 亜弥さんと私は、スマホの経路案内を頼りに宿泊先から京急線、JR線、バスを乗り継いで少し早めに到着するつもりでいた。ところがギャラリーのあるはずの所は住宅地の行き止まり。ナビが目的地の後ろ側を示すことはよくあるので表側に回ってみたが見つけられない。しばらく探しても分からないので、犬の散歩中の女性に尋ねた。「ああ、小さなギャラリーね、うちの隣よ」と案内して下さった。

 そこには、通路いっぱいのマイクロバス。これがギャラリーのサインを隠していた。長橋さんが搬入のために勤務先の大学から借りたマイクロバスを停めてあるのを、車庫だと思い、私たちは道に迷ったのだった。

 ちょうどそこに横井さんが到着。10時ぴったりだった。

 ギャラリーでは、すでに、長橋さん、景山さん、大村さんが作業を始めていた。なんと、開始時間を間違えて9時前から始めていたらしい。

 榎倉充代さんへの挨拶もそこそこに、私たちも作業に参加した。皆さん、Zoomでしか顔を合わせていないので直に会うのは初対面。でも、まるで昔からの知り合いのよう。

 まずは、作品の梱包を解き、壁面に仮止めして、中心の高さを決定した。横井さんが持参して下さったレーザー墨出し器が大活躍。

​ 次に、資料台の高さを決めて壁面に固定した。予定していた高さよりやや高め。

 この資料台の上の壁面の作品配置を決めて、全体の高さを微調整。

​ 追加した額装の「緑の鉢」を2点ともモニターの左右に配置できることが分かり一安心。このギャラリーは、初めて足を踏み入れた時には「狭い」という印象だったのに、作品を配置していくと、どんどん収まっていく。コーナーが曲面になっていることも影響しているのかもしれないが、まるでマジック。

 最後に、大型カルトンの位置を全体のバランスを考えて決定し、カルトン台を壁面に固定した。長橋さん手作りの資料台とカルトン台は、古材を利用しているためか、まるで、元々ここに設置されていたかのような馴染み方。流石です。

 ここまでの作業で13時頃。榎倉充代さんが母家から降りていらっしゃって、進捗状況を尋ねられた。「順調です」「これからお昼休憩して、あとは綺麗にマグネットで作品を固定するだけです」

​ 私たちは、ゆとりの表情で、ファミレスに昼食をとりに行った。

​ ファミレスでは、これまでZoom会議に参加していなかった、全く初対面の横井さんから、上村さんの作品について今まで知らなかった情報など伺い、かなりゆっくりと時間を過ごした。

 そして、午後の作業を開始。「あとは綺麗にマグネットで作品を固定するだけ」と思っていたのは甘かった。この作業が実に手間がかかる大変な作業だった。

​ 長橋さんと景山さん、亜弥さんと横井さんの二組で仮止めをマグネットに置きかえて行ったのだが、壁面が固く、画鋲がまっすぐに入らない。苦闘に次ぐ苦闘。

​ 私は、キャプションの担当で、文字を修正してプリント、切り揃えるような仕事だったので、申し訳ない思いで皆さんの苦闘ぶりを記録した。

 それでも、搬入終了予定時刻の18時を少しオーバーしたくらいで、無事1日で搬入飾り付けを終えることができた。

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搬入翌日、上野に(二度も)行った

Episode 09

 Zoom会議での話では、翌日12日は搬入予備日だったので、11日にギリギリまで展示にかかってしまい、会場の撮影も出来ていないし、大型カルトンのテープが剥がれそうで不安だったので、朝から確認に行こうと思っていた。

 ところが、予備日のことは榎倉さんに伝わっていなかったようで、無理をお願いし、夕方5時に開けていただくことにした。

 それまで時間がたっぷり空いてしまったので、亜弥さんと私は東京国立博物館で開かれている特別展「琉球」を観に行った。

​ 上野公園に着くとコロナ禍はどこに行ったのかと思うほどの人出。フィリピン・エキスポ2022が開かれていた。恐ろしい! 迂回して博物館へ。

​ 「琉球」展はまたこれまでと同じような展示かと思っていたが、初めて見るものが多く楽しめた。特に良かったのは黄天目茶碗の台〈朱漆雲龍箔絵天目台〉。沈金の細かな地模様の上から密陀絵などで龍が描かれていて極めて上品。小堀遠州や松花堂昭乗などの粋な茶人に珍重されていた名品。

 17時にギャラリーに着いた。キュレーターの岡田有美子さんがちょうど東京に来ていて会期中はもう居ないので、展示を観てもらった。岡田さんは、沖縄で上村豊展を行う時には実行委員の中心になってもらいたい人なので、この日に観てもらえて幸いだった。予備日で会期前だけれど、観客第1号。

 亜弥さんが、西村雄輔さんに連絡を入れていた。西村さんは2011年、石井理絵さんと琉球大学へ集中講義に来て下さった。

 2005年から始まった桐生でのYAMAJIORIMONO*WORKSについてお話ししていただいたのだが、このWORKSは現在も継続しているとのこと。

​ 石井さんとはその後結婚され、西村さんは現在、東京藝術大学の准教授。亜弥さんからの急な連絡だったが、ちょうどオープンキャンパスが終わったところで、大学でお会い出来ることになり、再び上野に向かった。

 上野は18時半を過ぎてもフィリピン・エキスポ2022のお祭り騒ぎ。恐ろしい!迂回して藝大へ。西村さんが校門前で待っていて下さった。

 西村さんは、上村さんが助手として勤めていた絵画棟の施設を私たちに見せて下さった。私は昔、田口安男先生の研究室に伺ったことがあったが、施設は全く忘れていた。1階エントランス突き当たりには展示スペースがあった。

 

​ 搬入の日に初対面だった横井さんに、上村さんのポートフォリオを見ていただいたら、1996年の〈無題(東京芸大絵画棟展示スペース壁面への制作)〉の写真を見ながら、上村さんがヴォルフガング・ライプのアシスタントをした話になり、その流れで、黄色の顔料を壁面の上から振り撒き、壁面の微妙な凹凸に顔料が乗っているという仕事もこの壁で行っていたとのことだった。

 ポートフォリオに載っているのは1995年の博士後期課程研究発表展での作品の流れの、壁面へ直接フロッタージュを弁柄色の油絵具で施した作品だったので、横井さんの記憶にある作品のことを西村さんに確認しようと聞いてみた。

 上村さんのポートフォリオのこのページを開くと、亜弥さんが、「あっ、これさっきの1階のスペースですね」と言った。私は「まさか、このスペースには壁画用の壁があるのに」と思っていた。上村ポートフォリオの「主要作品一覧・概要」には以下のように記されている。

​ 〈この壁面の裏側は、壁画工房のアトリエ・スペースである。つまり、もともとは、この面こそが裏側であった。しかし、建物のエントランスホールに面しているのでそちらから見れば表側である。ともあれ、この壁面は大変印象的だ。現在白く塗装し、展示スペースとして活用しているが、何も展示されていないときの方が、はっと立ち止まらされる事が多い。この壁面一面に直接フロッタージュを行ったが、ライトレッドの絵の具により、薄紅色に色づいた壁の変化に気が付いた観者は少なかったようだ。〉

​ 西村さんの発言は衝撃だった。「そうです。壁画用の壁は撤去されました。この写真はとても貴重です」

 上村さんの「主要作品一覧・概要」を読めば、この壁画用壁面をめぐる仕事や思索は、後に「路地の構造」などにも繋がる重要なものであるのは明らかだ。​その壁が撤去されて、今は無い…。

 西村さんは東京藝術大学に収蔵されている上村さんの作品のことも調べて下さった。大学のホームページから検索が可能で、1994年の〈早佐織物工場〉が収蔵されていることが分かった。

 また、西村さんからの提案はとても有難いものだった。それは、上村さんが東京時代暮らしていた千葉県の我孫子から桐生へ追体験の車での移動の提案だった。

​ 助手時代、上村さんは西村さんをジムニーに乗せて一緒に桐生まで通っていた。往路は次に行う計画などの話が主だったが、復路は桐生再演についての思いや反省などの深い思索的な内容の話が多くなったという。

 追体験の車の旅をしてみたら、きっと、上村さんの語っていたことを思い出せるのではないだろうか。変わってしまった風景、変わらない風景を眺めながら、どんな話が蘇り、どんな話が新たに生成されるのだろう。

​ 亜弥さんは、「7月10日の搬出の時にまた東京に来ますけど、8日には着いていますよ」と話していた。まさに善は急げ!?

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​上村豊展、始まる

Episode 10

 ついに6月17日、上村豊展がスタートした。私は妻の禮子と開廊時刻の20分前にギャラリーに着いた。既に榎倉さんは解錠して下さっていて、大型カルトンが無事なのを確認して、会場の撮影を始めた。そこに、長橋さん、横井さんが到着。

 開廊時刻に合わせて来て下さったのは、荒川昭男さんと古山コスミさん。お二人はパートナーで、お話しするうちに、古山さんが岡山でアートイベントの企画をされていることが分かった。

 それは、BENGALART展。江戸時代、赤の顔料「ベンガラ」の産地として栄え、今も瓦や壁などが弁柄色の赤い街並みが残る岡山県高梁市成羽町吹屋地区。ここで開催されているアートイベントとのこと。

https://www.tv-tokyo.co.jp/travel/entry/bwIoo/32310

​ 先日の搬入の時に話題になったのが、上村さんの1996年〈無題(東京芸大絵画棟展示スペース壁面への制作)〉。この作品も1995年の博士後期課程研究発表展での作品もベンガラ色のフロッタージュ作品だった。そして1996年桐生再演3での〈清水工業所旧工場におけるドローイング〉にもベンガラの顔料が…。

​ 最初の来場者から、強く上村さんとの関係を意識させられることになった。

 妻の禮子は織の作家である。禮子は、後から展示に加えられた「緑の鉢」2012-13年を観て、嬉しそうに言った。「絣の糸遣いみたい」

​ この2点の「緑の鉢」が見つかったときも、それ以前の skskでの draw 2 展でも、私はもう一方の「緑の鉢」に注目してしまったのだが、禮子はこちらの作品に興味を持ったようだ。

​ それは、この作品の構造にある。上村さんのドローイングは墨付けの手法による線を施した後、横向きの帯状に切断し再構成することが多い。こちらの作品では、等間隔に7本の帯に切断しているが、上から2,4,6番目の帯は上下を逆にしている。

​ 言葉だけで説明しても分かりにくいので、写真で元の墨付けした状態を再現してみた。

 私は、ちょうど2012年の頃、紅型の型紙の構造を使ったTurbulence Seriesの作品を作っていた。紅型衣装が反物の向きを自在に変えて組み合わせている面白さ、構成の妙を取り上げていた。例に挙げたこの紅型衣装は、反物が左から順順逆逆と使われている。

 私は、上村さんの「緑の鉢」の発想は紅型からだと思い、禮子は絣糸の配列からだと思った。どちらだったのか、あるいは両方だったのかは今となっては本人から確認できないが、いずれにせよ、沖縄での生活から、彼の制作に対する思索が広がり深化したのは間違いないと思う。skskトークで彼はこう語っていた。

 〈時が移って沖縄に来て、去年のドローイング展に出すということで、全然違う動機で描いていたんですけど、作っていたら、また鉢が…、無意識にというか多分意識しているんですが、そういう形に見えてきた。

 これは、作っている本人にとっては凄く面白いことですけれども、そういう面白さを、普通のドローイングの形として見せられないかなというのが、この「緑の鉢」シリーズのドローイングの基本的なコンセプトです。〉

 

 もう一つは意外な事実である。

 横井さんと、榎倉康二のゼミの内容について、「水」や「空気」のように、それ自体が形を持たないものを取り上げる傾向があったという話になった。確かに、上村さんもそういうものへの関心が強かった。

 それで、〈路地の構造2001〉の印象的な両掌を広げた写真も、「水を掬っているところですよね」と聞いた。

 横井さんは、「あれは水を掬っているのではなく、冊子を拡げて支えているのです。冊子を透過して見える手の形です」と答えた。

 2001年の桐生再演7には、横井さんは上村さんと一緒に参加していた。

 「写真を撮るときは、とても苦心したそうです。自分の広げた両掌を撮らなければいけないので。セルフタイマーを使ったそうです。」

​ その支えられている冊子は1997年の〈吾妻公園温室プロジェクト〉の冊子だという。

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最終週に再び東京へ

Episode 1​1

 いよいよ展覧会も最終週。私は、8日(金)9日(土)10日(日)に再び東京に行き、在廊することにした。

 8日(金)の最初の来場者は、福田尚代さん。福田さんが同級生だったことは、生前に上村さんから伺っていた。私は、彼女の回文の著書を2冊持っているくらい、福田さんの作品が好きだ。搬入の前日に東京都現代美術館のコレクション展で〈翼あるもの〉を見ることができ、この日、ご本人に会うことも出来た。開廊時刻から当番していて実に運が良かった。

 福田さんは、かなり長い時間、ゆっくりと作品もビデオも見て、上村さんのポートフォリオにあった〈無題(幽霊シリーズ)〉(1991年)を見ながら、この「投石〜東京藝術大学油画第2研究室」展に一緒に参加したことを懐かしんでいた。

 この〈無題(幽霊シリーズ)〉(1991年)が再び話題になったのは、同じ8日の最後の来場者、横湯久美さんとお話しした時だった。

​ 1学年後輩だった横湯さんは当時、この作品を見てとても格好良い作品だと思ったという。「上村さんは、優しいお兄さんのような存在。誰に対しても平等だった」

 多くの方が上村さんを「優しく、平等だった」と懐かしんだ。助手の期間が長く、後輩に慕われていた。きっとそうだったんだろうなと納得した。

​ 横湯さんも東京芸大絵画棟1階エントランスの展示壁面(実は壁画用の壁の裏面)に関わる話をされた。この壁の奥側にあった壁画工房が取手校舎に移った後、そこを油画第2研究室が使用するようになったとのこと。この壁面をめぐる上村さんの試行錯誤については今後も調べていきたいことの一つだ。

​ 話し込んでいると、2021年に開催された「千の葉の芸術祭」のリーフレットを榎倉充代さんが持ってきてくださった。表紙に横湯さんの作品が掲載されていた。

​ それは、新雪の中に潜り込み、そっと後ろに抜け出した行為の実に繊細な痕跡が写された写真作品だった。「死」を意識させるこの美しい写真に、私は思わずゾクリとした。

​ その時、横湯さんはこう呟いた。

 「今まで考えてもいなかったけれど、もしかしたら、私の作品は、上村さんの〈無題(幽霊シリーズ)〉(1991年)に影響を受けていたのかもしれない…」

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〈無題(幽霊シリーズ)〉1991年

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横湯久美〈その時のしるし/There Once Was〉

​遂に最終日

Episode 12

 遂に、展覧会も最終日。7月10日、上村さんの三回忌命日。

 流石にその最終日の来場者は多かった。芳名録記載者数だけでこの日34名。実行委員等スタッフ6名と榎倉充代さんもほぼ一日中ギャラリーに居たので、常にぎっしりと人が居る状態だった。そして、新型コロナ感染症もここにきて夏場の感染者数倍増。出来るだけスタッフは屋外に出て待機し、話すようにした。

 日陰を求めて、隣家との塀際に並んで立ち話をしていたら、「順番待ちでしょうか?」と声を掛けられた。行列のできるギャラリーだ。

 パラソルがあったら良いのにね、などと言っていたら、本当に榎倉家の方がお洒落なパラソルを出して広げてくださった。ただただ感謝です。

 1993年の両国駅構内のインスタレーションを取材し、そのメンバーを翌年からの桐生再演に導いてくださった桐生タイムスの蓑崎昭子さんもこの最終日に来廊、熱心に取材をしてくださっていた。

 私にまで取材をしてくださったので、このHPを見て頂いた。そこで質問、「なぜ、こんなに熱心に上村さんの展覧会に関わっていらっしゃるのですか?」

​ 「その答えは、このHP上で…」などと気の利いたことが言えない私は、長々と要領を得ない受け答えをしてしまった。

 

 芳名録に署名してくださった来場者総数で184名。北海道から沖縄まで、上村さんの先輩、後輩、同級生、教え子、親戚、教授の方々等、多くの方にご来場いただきました。本当に感謝申し上げます。そして上村豊を「識る」豊かな時間を共有させていただきました。

 この後、沖縄での展示が実現できるよう頑張っていきたいと思います。黒川さんが手配してくださった、搬出後の打ち上げも楽しい時間で元気をいただきました。

​ 搬出が終わった、空っぽになったギャラリーの夜景も素敵でした。

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沖縄展に向けて、話し合いを始める

Episode 13

東京藝術大学大学美術館で、2023年3月31日〜5月7日の会期で藝大コレクション展『買上展』が開催され、上村豊さんの作品〈早佐織物工場〉が展示されることになった。

このことが決まった丁度その頃に、岡田有美子さんが亜弥さんの上村資料整理を手伝ってくださることになり、まずは3人で、沖縄での上村豊展をイメージする話し合いを始めませんかと誘っていただいた。

私が任されていた上村研究室の蔵書整理が、予定より半年も遅れたが、2022年暮れまでに終了したので、丁度良いタイミングだった。

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亜弥さんは『買上展』企画担当の東京藝術大学准教授 宮本武典さんと連絡をとりながら、展示に必要な資料を探して提供することになり、私も一緒に上村研究室の資料探しを手伝った。

 

上村さんのポートフォリオに収められていた〈早佐織物工場〉の写真の4×5サイズリバーサルフィルムをまず発見。東京藝術大学に収められていた作品の付属資料から撮影者は黒川未来夫さんと分かった。

桐生再演の第1回(1994年)と第2回(1995年)を撮影したVHSビデオも見つかった。これには撮影者:大村雄一郎と明記されていた。

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上村豊〈早佐織物工場〉1994年 黒川未来夫撮影

東京のSPACE23°Cでの上村展で、私は「skskトーク04」ビデオから〈緑の鉢〉の部分だけ文字起こしして展示資料として使ったが、トークの全部を文字起こししておいた方が良いと思い、少しづつ進めていた。

ほぼ文字起こしが完成し、せっかくなので、トーク時に上映されていたスライドショーの画像と組み合わせて、これを見ただけで内容がわかる冊子にしたいと思い立った。

ただ、トークで使われたスライドの前半部分(=上村豊ポートフォリオ)の画像しか無かったので、トーク主催者(聞き手)石垣克子さんに後半の「森芳工場リノベーション・プロジェクト」のスライド画像を持っていないか探してくれるよう頼んだ。

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桐生再演1 早佐織物工場 1994年 大村雄一郎撮影のビデオより

2月11日に、いろいろな用事を抱えて沖縄に来る岡田さんと一緒に3人で上村研究室のハードディスク内の資料探しをすることになった。

丁度その日に「琉球大学美術教育専修卒業展」が開かれていたので、まずこちらを見てから上村研究室に行こうと思い会場に向かった。

なんと運良く、石垣さんも観に来ていて、会場入り口でバッタリと出会い話していたら、午前中の打ち合わせを済ませた亜弥さんと岡田さんも展示を観にやって来た。上村さんのことをしていると、何かこういう素晴らしい偶然が多い気がする。

石垣さんによれば、skskトークの時、石垣さんのパソコンが壊れていて、事前にはポートフォリオのデータしか受け取っていなかったということで、石垣さんは森芳工場の方のデータは持っていないことが判明。

今日のハードディスク調べで出て来たら良いなと思っていたら、本当に早々とパワーポイントデータを発見。

翌日から冊子版をすぐに作り始め、2月15日にはほぼ出来上がった。関係者に内容確認をとり、2023年2月25日私家版発行できた。

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上村さんの足跡を辿る桐生の旅

Episode 14

東京藝術大学コレクション展『買上展』開幕日の3月31日に合わせ、3月28日から亜弥さんと一緒に桐生を訪ねた。

昨年の11月に亜弥さんは既に一度桐生を訪れていて、桐生タイムスの蓑崎さんに主だったところは案内してもらっていた。この時も誘われていたのだが、12月に石垣島の宮良殿内調査があったので、その前の旅行は控えて同行しなかった。

8:50那覇発SKY512便で羽田に。京急〜東武と乗り換え15:32新桐生駅に着いた。時刻表を見たら次のバスまでずいぶん時間があった。周りを見回したら、良さそうな桜が目に入った。とりあえず花見で時間を潰すことにした。

見えていたのは県道68号線沿いの桜だった。かなりの古木の桜並木。沖縄では見られないし、この時期は杉の花粉が酷くて長い間旅行は控えていたので、実に久しぶりに見る満開のソメイヨシノに感動した。

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今回の桐生訪問では、山治織物工場に二泊させていただくことになっていた。

トランクも持っていたので、不慣れなバスは止めタクシーにしたら、あっという間に着いてしまった。予定よりも30分以上前の到着。

​降車し路地に入ると、手入れの行き届いたノコギリ屋根の工場が目に入ってきた。

山治織物工場の山崎裕之さん・由美子さんご夫妻は、2018年に上村さんを訪ねて沖縄にいらっしゃったことがあり、その時、琉球大学の講座資料室でお目にかかったことがあった(筈だった)。穏やかで上品な老夫婦という記憶だったのだが、出迎えてくださったご夫妻は若々しく、まるで初対面のような気がした。

一階の応接室で、山崎さんからお話を伺った。穏やかな話し方は琉球大学での印象と同じだったが、そのお話は内容が深く知的な洞察が滲み出ていて感動した。なるほど、西村雄輔さんと17年間yamajiorimonoworksを継続されてきた方なのだと感銘を受けた、

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工場の片隅に泊めていただけるのかなと勝手に想像していたら、何と贅沢なことに二階の八畳間を提供していただいた。亜弥さんは一階とそれぞれ一部屋ずつ。

二階に上がり部屋の窓を開けると美しい景色だった。JRの線路が窓の側を通っていて、奥に桐生川が流れ、その川辺に紫色の綺麗な花が咲いていた。花大根というらしい。

一寸休息の後、工場の中を案内していただいた。日が落ちてからの光景も美しかった。全てが丁寧に設えてあった。西村さんと石井さんの仕事ぶりに感銘を受けた。

​ジャガード織のための紋紙がオルゴールのパンチカードのようで興味深かった。

奥様が準備してくださった夕食はとても豪華だった。桐生タイムスの蓑崎さんもお招きしてあったが、年度末の忙しさはそれを許さず、蓑崎さん好物の鰯の梅肉包みは私たちのお腹の中に。長男の一範さん、次男の丈士さん夫婦もご一緒してくださって、それは楽しい語り合いだった。

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桐生の旅二日目

Episode 15

朝早く目覚めた。窓を開けると日の出前の景色が美しかった。

線路の向こう側の花大根を近くで見たくて、工場の裏手から外に出て線路を乗り越えてみた。土手にはスギナなどの春の草に混じってカラムシも生えていた。

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山崎さんが車を出してくださって一緒に「森芳工場」に行った。ここで蓑崎さんと待ち合わせた。職場の桐生タイムス社はこのすぐ近所だった。

蓑崎さんに森山美季さん​ご紹介いただいた。「桐生再演」の一番の理解者であり工場のオーナーだった母の喜恵子さんからこの「森芳工場」を相続されていた。

美季さんから「近く、ここを改めて開放する予定」と伺った。

上村さんたちが2003年から04年にかけてリノベーションしたこの建物では、2011年以降は桐生再演としてのプログラムは開催されていない。所有者が変わった今、次の良い形として活かされていくのなら素晴らしい。

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既に貴重な資料は別のところに寄贈されているとのことだが、屋内には、片付けで不要とされた書籍や資料がかなり残されていた。

戦前の試染のデータと思われる半ば朽ち果てた冊子なども残されていた。

見るべき人が見たら、おそらくは貴重な資料なのではないかと思われたし、内容がわからない私の目にもその古びた資料は時間の蓄積を感じさせる魅力的なものだった。このまま廃棄されてしまうのであれば実に勿体無い。とは言っても、私は何か言える立場でもない。魅力的なページを数枚写真に収めただけだ。

奥の居室部でお話を伺った。そこの窓から見える工場の裏手は、以前は井戸などがあり、上村さんが「庭に水を遣る」シリーズの制作を行った場所だった。今はその井戸も庭も、何も無くなっている。

居室部の壁には、先々代、先代の森山芳平氏の肖像画が架けられていて、ここが桐生の名士の工場だったのだなと改めて思い直した。

「吾妻公園温室プロジェクト」の温室は、上村さんが「路地の構造」のシリーズに移行した2002年には既に建て替わっていたけれど、今も同じ場所に同じような規模で建っている。上村さんが〈それまでの桐生での制作を、初めて、俯瞰するような視点を実感〉した場所である。ここは今回必ず訪れたい場所だった。

​吾妻公園の山道を登ると、そこは桜の名所だった。ソメイヨシノに枝垂れ桜など様々な種類の桜が満開の見頃で、山の上から満開の桜を見下ろすことも出来る素晴らしい景色の場所だった。

それはそれで堪能したものの、上村さんの「制作の転換地点」を確認するには、この満開の桜は一寸邪魔者だった。​今回は素直に美しい桜を十分に楽しみ、上村さんが制作を行った季節、夏か秋に再び訪れなくてはならないと思った。

​温室の中も、多肉植物の栽培比率が高くなって、以前とは変わってきているという。それでも、温室の中の棚には、やはり、地元の愛好家が持ち込んだ蘭が並べられていて、上村さんがプロジェクトを実践した頃と変わらず、この温室がこの場所で同じように活躍し続けていることを実感できた。

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続いて、有鄰館を案内していただいた。この有鄰館の煉瓦蔵は、1994年、桐生再演の初回に参加メンバーが一堂に作品を展示した場所で、上村さんは「無題(桐生市有鄰館の扉への制作)」を発表している。

この有鄰館は桐生市指定重要文化財に指定されていて、この煉瓦蔵の他に、味噌蔵、醤油蔵、酒蔵、塩蔵がある旧矢野蔵群である。

現在も、展示会やコンサート、朗読会などに利用されているという魅力的な場だ。

煉瓦蔵は大正6年(1917年)に醤油の”もろみ貯蔵庫”として建築され、使用されてきたが、昭和60年(1985年)頃に屋内駐車場として改修され、内部の独立柱が撤去されたという。

平成5年(1993年)から「地域個性形成事業」が導入されたと言うので、その、広く柱のないスペースを活かして、桐生再演の展示が行われたのだろう。

今は、耐震構造の梁が設置され、当時とは少しだけ雰囲気が変わったようだ。

有鄰館の隣にある桐生歴史文化資料館を見学の後、蓑崎さんは仕事に戻られた。

昼食を済ませた後、山崎さんに水道山公園に連れて行っていただいた。

ここは、吾妻公園と同じ山の高台だが登り口は反対側の大川美術館側だった。桐生の街が一望でき、まさに〈俯瞰する視点〉の場所だ。

上村さんのドローイング集を見ると、1997年の吾妻公園のプランドローイング群の前に、同じ年のこの水道山の観月亭におけるインスタレーションのドローイング群が収められている。

上村さんが〈俯瞰する視点〉を実感したのは、実はこちらの方だったのかもしれない。そして、吾妻公園の温室の鉢から次のプロジェクトの発想が​広がって行ったという順だったのかもしれないなと想像が膨らんだ。

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桐生織物記念館にも連れて行っていただいた。スクラッチタイルが貼りめぐらされたレトロな建物。ジャガード織の織り機や紋彫機(通称:ピアノマシン)が展示してあって、紋紙の使われ方や作り方がよく分かった。

森芳工場で見た森山芳平氏の肖像画と同じような、桐生織物同業組合の歴代組合長の肖像画も並んでいた。興味深い展示物が並んでいたのだが、朝早起きしすぎたのと花粉症の薬のために睡魔が襲ってきてフラフラだった。

​山治織物工場に戻り、奥様のパッチワークやyamajiorimonoworksの資料、西村・石井編著『地と対話することー場と行為のシナプス』3331Art Chiyoda などを見せていただいた。

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桐生での最終日

Episode 16

朝ごはんは、実に気持ちの良い中庭の空間でいただいた。

yamajiorimonoworksの西村雄輔さんと石井理絵さんの仕事はゆっくりと時間を掛けた丁寧なもので、細部に至るまで山崎さんとの対話を経て設えられている。

この「中庭」は工場の最初の建物跡である。

山治織物工場も、桐生にある他の織物工場と同様、増築を重ねて出来ていた。その最も古く、もう改築が効かなくなった最初の工場部分が取り払われ、今は中庭となっている。最近そこに、最初の工場の記憶を含んだ東屋が建てられて、内装がゆっくりと進行中だ。

西村雄輔さんが、去年6月の提案=千葉県我孫子から群馬県桐生への「追体験の車での移動」を実現すべく、帰りの行程の追体験、桐生から我孫子まで車で送ってくださるという。

西村さんが迎えに来てくださるまでの数時間、母家で山崎さんからお話を伺った。

山崎さんは桐生再演のリーフレットや当時の桐生タイムスなどの資料を探し出してくださっていた。

​上村さんが桐生再演の事務局を務めていたのが2005年10月に琉大に赴任する直前まで。その翌年、2006年に桐生再演はかなり様変わりしたようだった。

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「わたらせ渓谷鐡道アートプロジェクト」が「桐生再演」と別企画で同時開催されたのは、若手参加者による、これまでの桐生再演への批判とも考えられる。

西村さんが​山治織物工場に関わり始めたのもこの年からだった。

かなりの期間、桐生再演に通いつめ、森芳工場のリノベーションにも深く関わりながら、西村さんが桐生再演で自らの「作品」を発表したのはこの前年、2005年の「Honey Work/ I Asked Into the Honey」(彦部家住宅)からである。

​この年、2006年の「作品」は操業を止め19年間動きを止めていた織り機を動かすことだった。とはいえ、糸はかかっていない。

ただ動かすだけのために、足りない部品は近所の鍛冶屋で作った。ドビー機のシャトルが往復する重厚な音が工場内の空気を震わせたという。まさにこれがその後17年継続するyamajiorimonoworksの始まりだった。

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その後、西村さんとyamajiorimonoworksを推進することになる石井さんは、この年2006年は「わたらせ渓谷鐡道アートプロジェクト」に参加。山治織物工場に残る「紋紙」を切断し和紙で包んだ「切符」を作り、桐生から「わたらせ渓谷鐡道アートプロジェクト」へ旅立つという「作品」を発表した。

山崎さんが大切にその切符を保管していらっしゃって、見せてくださった。これはその後の二人との長い対話の旅への切符でもあったのだろう。

今回の旅では、本当に山崎さんにお世話になった。また、ゆっくりとお話を伺うことが出来た。山崎さんのお話は、ストンと腑に落ちるものばかりで、こうやってお目にかかるのが必然だったように感じた。上村さんは亡くなってしまったけれど、私の中で生きていて、このような大切な人との出逢いに導いてくれているのだなと思った。

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桐生から我孫子へ

Episode 17

西村さんが11時に来てくださった。山治織物工場の前で集合写真を撮影し、別れを惜しみながら出発した。山崎家の皆さん本当にお世話になりました。

今回の桐生訪問で、山治織物工場と森芳工場という二つの「場」を体験できたのは、とても意義深かった。

操業を停止して19年後に「桐生再演」で眠りから覚め、その後17年の間、ゆっくりと対話を重ねながら少しずつ設えが美しく変化し続けている山治織物工場。

一方の森芳工場は、1994年から10年間ほど「桐生再演」で培った関係性を礎に、ほぼ1年間かけてのリノベーションプロジェクトで作り上げられた空間であったが、2011年以降「桐生再演」としての対外的な活動は約10年の間止まり、いま新しい所有者のもとで開放されようとしている。

​この対照的とも言える二つの「場」は、今後どのようになっていくのだろうか。

そして、上村さんの回顧展と関わっていけるとしたら、それははどのようなものなのだろうか…。

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有料道路を通らない我孫子への道は、蛇行する渡良瀬川を何度も渡る道順だった。

​3月末の渡良瀬川の堤防は菜の花に埋め尽くされていて壮観だった。

この道は、かつて上村さんの運転するジムニーに乗っての、桐生での仕事を終えての復路だった。

〈往路は次に行う計画などの話が主だったが、復路は桐生再演についての思いや反省などの深い思索的な内容の話が多くなった。追体験の車の旅をしてみたら、きっと、上村さんの語っていたことを思い出せる〉というはずだったが、西村さんが「買上展」に寄せた文章は、次のように少々話が違っていた。

〈エアコンの効かないジムニーで、窓を開けながら下道を突き走る。聞こえないけれど運転席の上村さんはずっと何かを話している。〉

話は聞こえていなかったんですか?」

いや、全くと言う訳ではなかったですよ」

​西村さんの車は騒音もなく快適で、yamajiorimonoworksに関わる重要なお話も伺うことができた。〈山崎さんとは、当初から、操業を止めていた19年間と同じだけは続けないと何も見えてこないよねと話していた。〉とのこと。

「今が17年目なので、そろそろフェードアウトし始める時期かな」

「えっ、終了してしまうんですか?」

「いや、フェードアウトしながら次の展開を見出していくというか」

確かに、「人」と「場」との関係なのだから、こうとは決めきれない流動的なものなのだろう。少なくとも19年間という当初の予定は達成できそうな頃合いで、次への展開を自然体で受け入れようという姿勢に見えた。

〈我孫子で紹介したいお店がある〉ということで向かったのは、駅近くのレストラン「コビアン」。上村さんのお気に入りの店だったそう。

「上村さんとよく行きました。値段が安いんです」

入口にあったメニューを見ると確かに安い。チキンカツ定食550円。

​店に入ってみて、理由が分かった気がした。名古屋の喫茶店の匂いがする。ナポリタンの匂い。懐かしかったんだろうな。

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上村さんは、千葉の我孫子に、沖縄に行く直前まで住んでいた。

その​東京時代最後の借家である一軒家を西村さんは私たちに見せてくださるつもりだった。ところがこれがちっとも見つからない。結局、諦めて別れた。

ところが、翌朝、西村さんから「昨晩、探して見つけました」と連絡があった。

その日は、東京藝術大学大学美術館へ10時に伺う約束を学芸員としていたが、その前に急遽、我孫子に行き指示の通り歩いたらすぐに見つかった。小さな可愛い家だった。本人が作ったという家の裏手の倉庫もまだ残っていて、その造りから上村さんのものに間違いないと確信した。

​暫くしたら、西村さんが家族同伴で駆けつけてくれた。奥様の理絵さんには今回は会えないのかなと思っていたので、昨日見つからなくて幸いだった。

​三人のお子さんもとても可愛らしかった。

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藝大コレクション展『買上展』の上村豊作品

Episode 18

早朝に急遽、我孫子まで行くことになってしまったので、やはり上野到着は少し遅れてしまった​東京藝術大学大学美術館の入り口で待ち合わせた大村雄一郎さんにお詫びしながら入館。

「まずは展示室に…」館長の古田亮さんと学芸研究員の中江花菜さんが出迎えてくださって、上村さんの作品のある地下二階に向かった。

展示されていたのは《早佐織物工場》。60×90cmの和紙24枚が隙間なく並べられている。つまり360×360cmの巨大な平面である。しかしこれは「作品」ではない。上村さんは収蔵にあたって次のようなメモを残していた。

​  『早佐織物工場』は、1994年9月から10月に

かけて群馬県桐生市で制作された作品であり、

その制作および展示の現場となった現在は操業

していない織物工場の名をタイトルとしている。

この作品は、私自身の制作に関わる一連の行為、

制作および展示期間における私の意図に拠らな

い外部環境からの諸作用、そしてその行為や作

用の痕跡を残す「素材−資料」 というような大

きく分けて3つの要素から成る。このうち東京

芸術大学芸術資料館に収蔵されるものは「素材−

資料」の一部である。作品の全体は、特定の場

と時間に分かち難く結び付いて成立するという

その性質上、完全な形での再構成あるいは再展

示は困難であるため、一種の資料として作品の

一部を保存するものである。

そのため、この「資料」の左手壁面には、黒川未来夫が現場で撮影した作品写真と上記のメモ、展示の指示書、宮本武典(企画者)、西村雄輔、平良亜弥のコメントがパネル展示され、さらに大村雄一郎撮影の「桐生再演」記録映像がモニターで流されていた。

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3階会場には買上作品を展示するにあたっての「学芸研究員の考察」のコーナーがあり、ここに上村さんの資料が「3. 買上学生制作品基礎データが残っていない作品」として展示されていた。

上村さんの作品が買い上げられた時にはまだこのような『基礎データ』を提出させることはなかった。上村さんは自主的に「収蔵にあたってのメモ」や「展示の指示書」を納めていた。

上村さんの買い上げをきっかけに、翌年度から『基礎データ」の提出が始まったとも考えられそうである。いろいろな意味で先駆的な仕事だった。

​この資料展示も含め、上村作品が立体的に浮かび上がる良い展示だった。

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『買上展』と作品展示

Episode 19

上村豊《早佐織物工場》は、このように素晴らしいものだったのだが、実はこのような展示に落ち着くまでには紆余曲折があった。

藝大からの最初の提案は、「資料」の右上1/4、つまり和紙6枚(180×180cm)だけの展示で、壁にではなく宙吊りにして、和紙はクリップで間隔をあけて繋ぐというものだった。

「所蔵品物品カード」や『東京藝術大学芸術資料館年報 '94』に掲載されていた写真が、和紙6枚だけだったこと、そして、多くの作品を展示しなければならないため壁面確保が難しいためだったようだ。

その後、作品と同梱されていたポートフォリオに「コメント」や「展示の指示書」が見つかり、「指示書」通りに壁面に24枚全てが展示されることになった。

​ところが、「指示書」の図について当初は、和紙の間に隙間を空けるものと解釈していたようだ。

沖縄のメンバーはこれに違和感を持ち、話し合い、平良亜弥さんが代表して次のようにこちらの解釈を伝えた。

上村さんの「素材−資料」(「早佐織物工場」)の指示書の解釈について、気になることがありましたので、こちらの考えをお伝えしたいと思います。

 

「一枚づつ留めていく」「図の通りの間隔を割り出して面つけしていく」「この図では間隔をあけるよう指示していると読み取れる」とのことですが、指示書は並べ順の指示だけで、紙の間隔をこれだけあけるようにという意味は含んでいないと解釈しています。

 

それは、一緒に作品の資料として提出されている和紙6枚を並べて撮影した写真が、間隔をあけた状態で写されていないからです。

指示書が間隔をあけるようにとの指示ならば、写真もそのような状態で撮影したのではないかと考えるからです。

 

もう一つ、1994年のこの頃は、書類制作はワープロを使っていた可能性が高く、その頃の感覚でこの図を読み取る必要があると思います。

今のように、パソコンで、隙間の間隔を自由に調整できる感覚で見ると、この図の意図を読み違えるのではないかと指摘を受けたからです。

確かにそれはあるな、と私も考えています。

 

また、碁盤の目のように描かず、一つ一つの四角を並べた図にしてあるのは、一枚一枚の和紙を並べたものであることを示すためであったと思います。(本人の性格から考えてもそういう感覚でつくったのだろうな、と感じます)

 

ですから、「図の通りの間隔を割り出して面つけしていくのではなく、【写真の状態のように、つまり間隔をあけずに並べる】のが、自然な解釈であると思います。

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私たちの提案は受け入れられ、このような展示となったのだが、実はこれが正しかったのかどうかは確定出来ない。それは、根拠と考えていた和紙6枚だけを写した写真が、上村さん撮影でないかもしれないからだ。学芸研究員は、この写真は作品提出後に事務的に撮影されたものと考えている。作者が没した後の作品展示とは、なかなかに難しいものがあるが、このような検討や討議、対話を行うこと自体が楽しく豊かな行為であるとも言えると思う。

買い上げ作品は、藝大の収蔵品となっているので、他で展覧できる機会はほぼ無いと言って良い。また、これだけ多くの買い上げ作品から再度《早佐織物工場》が選抜され展示される可能性も少ない。まさにこの作品と直に出会うのは一期一会なのだ。沖縄の人たちにも上村さんの上質な作品が展示されていることを知ってもらい、出来れば観に行ってほしい。そう話し合って、岡田有美子さんに琉球新報紙に寄稿してもらった。2023年4月25日付〈上村豊の「歩行」〉。とても良い論考なので皆さんに読んでいただきたい。

新聞に寄稿するについては、文字数の制約や、指示通りではない見出しが付いてしまったりと、結構ストレスが多い。琉球新報に寄稿した後、岡田さんがFacebookに投稿した記事がとても良かったので、ここで併せて紹介したい。

 上村豊さんの作品の一部が、現在開催中の「買上展」(藝大美術館・上野)で展示されています。上村さんは2006年に琉大の美術教育専修教員として赴任し、2020年に若くして病のため帰らぬ人となりました。沖縄時代の上村さんしか知りませんでしたが、今回の展示に際し上村さんが遺した桐生の記録をみていくうち、沖縄での上村さんについても全く知らなかったことを思い知りました。

 若かった私は、彼に「沖縄で新作を発表して、学生に作家としての姿を見せて」といつも生意気なことを言っていました。上村さんは否定も肯定もせず、黙って煙草を吸うか、インパクトドライバーと水平器を持って誰かの展示を手伝うか、誰に頼まれたのでもなく記録撮影をしていました。

 のちに上村さんは琉球新報の「美術月評」を担当していたのですが、その頃すでに県外に出ていた私に、毎回なぜかその紙面を送ってくれていました。普段はほとんど連絡を取ることもなかったにもかかわらず。それは、上村さんの何年越しかの応答だったのかも、と今は思います。

 

 桐生の街に10年以上通い彼が制作したもの、もしくは琉大の研究室に遺された膨大なものに触れ、私自身のあさはかさ、上村さんのあらゆる物事へのあたたかい眼差しに今更ながら衝撃を受けました。桐生に丁寧に関わってきた上村さんは、沖縄でももちろん場に身を投じ、目の前の人に誠実に接し「制作」し続けていました。桐生で技術を習得し優秀なインストーラーでもあった上村さんの技術によって成立していた展示は数知れません。

 わかりやすい作品発表のような形でその「制作」の一端を見る機会は限られていましたが、それは真摯に沖縄に向き合っていたからこそであり、移住してすぐに作品化や発表できるものではなく、とても長い時間が必要であったのだと思います。もしくはその頃の上村さんは「作品化」そのものに違和感を持っていたようにも見えます。

 

 今回展示されている《早佐織物工場》(1994)は、上村さんが桐生に関わるようになった最初の年のもので、彼の思想が垣間見える重要な作品の「素材ー資料」です。「買上」されることへの抵抗とも読める文章が一緒に収蔵されていたあたり、上村さんらしいなと思います。この繊細な和紙は、おそらく今後なかなか見られる機会がないと思います。また、上村さんは未来の学芸員に向け端的な指示を残しており、作品展示とは別コーナーでその一部が紹介されています。5月7日までなので、本当にたくさんの方に見てほしいです。上村さんと交流のあった方にぜひ展示のことを伝えてください。

 本日の琉球新報に寄稿をしたのですが、著作権の問題があるので一部だけ掲載します。今後上村さんにお世話になった方々と沖縄での上村豊展を実現させたいです。上村さんとのエピソードをお持ちの方、ぜひ教えてください。

 

とここまで書いて、こっちを紙面に載せれば良かったのかなとふと思いました、、新聞記事って難しいですね、、、

蓑崎さんもとても良い記事を書いてくださった。

〈『買上展』に上村豊作品〉桐生タイムス2023年4月27日付。こちらも皆さん是非読んでください。

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上村豊蔵書, Library & Studio #504 へ

Episode 2​0

琉球大学では、教員が研究費で購入した書籍(研究用図書)は附属図書館の所有であって、在任中その教員が使用させてもらっているという仕組みになっている。

しかし、この研究用図書を利用するのは、殆どが講座の教員か学生なので、わざわざ図書館に足を運ぶのは徒労なことだ。そのため殆どの教員はこの研究用図書を各研究室や講座資料室等に置いている。

2019年3月、私が定年退職を迎えるにあたり、本来なら附属図書館に返却する約300冊の研究用図書を、絵画分野を引き継いでもらう上村さんに全て移算する手続きを行った。

それは、約300冊の書籍を私が一旦附属図書館まで運び、登録処理を済ませた後にまた上村さんが引き取るという面倒なものだった。

​この面倒な手続きがやっと完了し、上村さんに有効活用して貰えると思っていたのに、上村さんは、私の定年退職後1年半にもならず急逝してしまった。

授業で使われたのであろう、教室と研究室に残された数冊以外の研究用図書は、山積みの状態で未整理のまま資料室に置かれていた。

事情のわからない他の講座教員がこれを整理するのは大変な労力になってしまうと案じ、私が上村さんの研究用図書の整理を行うことを買って出た。

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私から上村さんに移算した研究用図書

3ヶ月ほどで上村さんの研究用図書の整理を終えることができた。調べてみて驚いたのは、上村さん自身が研究費で購入した書籍(研究用図書)は6冊のみ、上村研究室にあった膨大な書籍は全て自費で購入した彼の蔵書だったことだ。

研究用図書の整理を済ませ、講座での再活用を願っていた私は、上村蔵書の活用方法を考えていた亜弥さんと一緒に講座教員と話し合い、まずは上村蔵書の整理と目録作りを引き受けることになった。

SPACE 23°Cでの展示に向けて、田中睦治さんと亜弥さんが上村作品の写真撮影を行い、その隣で、私が上村研究室の蔵書の整理を行うということを数ヶ月続けたこと、そしてそれは上村さんと対話しているような時間だったことは前述の通りだ。

目録を作りながら、思わずその中の一冊に読み耽ってしまうことも度々だった。

蔵書整理は上村さんの頭の中を覗いているようなかけがえのない時間だった。

​コロナ禍で琉大構内に入ることを控えた時期もあり、2022年の年末にやっと目録が出来上がった。藝大関係や桐生関係の資料と一緒になった書籍を除き、書架に収めた蔵書だけで1,073冊になった。

2022年12月末に蔵書目録を作り上げ書架に整理して収めた上村蔵書の前に立つ平良亜弥さんと私

亜弥さんは、上村蔵書を美術教育講座の授業などで有効活用して貰えることを望み、且つ、この蔵書が散逸しないよう講座で管理して貰えることを望んでいた。

しかし、現実的に講座で管理することの難しさが明らかになった。

Library & Studio #504 の二階にはまだ書架を増設できる壁面が残っていたので、次善の策としてここで預かるのはどうかと提案してみた。亜弥さんは喜んで同意してくれた。

岡田有美子さん、亜弥さんと私の3人で、沖縄での上村豊展をイメージする話し合いは、ほぼ月一のペースで継続していたが、今年4月の話し合いの時、岡田さんから面白い報告があった。

​岡田さんは以前から美術家の根間智子さんの活動を支援していたが、その根間さんが上村蔵書に興味を示し、宮城島の住居・アトリエに隣接して新築する予定のギャラリーで上村蔵書の展覧会を開いてみたいと希望されているとのことだった。

この報告を聞きながら、私の頭の中に、具体的な書架の形が浮かび上がった。

Library & Studio #504 の二階壁面に設置でき、これを宮城島のギャラリーにも持っていき展示にも使える、「箱」を積み上げるような書架のイメージである。

早速、ラフスケッチを描き、上原一太さんに相談した。一太さんは Library & Studio #504 のリノベーションで本棚を含めて全ての施工を担当した大工さん(兼 設計士)である。ざっくりした私のイメージを現実に可能なプランに修正してくださった。

増設する書架の「箱」の幅が、上村研究室の書架の幅とほぼ同じ寸法だったので、

ひと棚ずつそのまま移動できるよう、箱の高さを割り出し、一太さんに発注した。

一太さんは自分の工房で作り上げた12個の箱を運び込み、6月28日に設置した。

​半日で設置完了する、見事な手際だった。

完成した増築書架は、「箱」の背板のある面とブロック塀が覗く面が交互になり、何も入れないままの方がアート作品のようで格好良いと思えるほどだった。

大学が夏季休暇に入った8月14日から、一回につき二棚分から四棚分を自家用車で運び、8月31日に運び終えた。上村研究室に整理した配置とは棚の並びに違いはあるが、研究室の書架がほぼそのまま移動した形に配置できた。

​この後、ドーローイングと亜弥さんが現在整理中の資料を運び込み、「上村豊研究のための資料庫」として活用して貰えるよう整備したい。

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Episode 2​1

ドローイング・コミュニケーション展に出品した上村作品

2023年9月19日から26日にかけて、上村さんの研究室にあったドローイングの大部分をLibrary & Studio #504 に運び、マップケースに収めた。一部の額装されたものは嵩が張るので吉田悦治さんの研究室で預かってもらった。

12月末までに上村さんの研究室を全て空にするよう事務から厳命されていたので、亜弥さんが、忙しい中、なんとか資料を整理してプラボックスに収め、Library & Studio #504 と亜弥さんの自宅に分けて運んだ。

その後は、亜弥さんも岡田さんもそれぞれが超多忙で、西原に運んで積み上げられた資料を整理できないまま時が過ぎ、月に一度の話し合いもそれほどの進展がなかった。

特に岡田さんは、鳥取で「アート格納庫M」の設立に関わり、「蔵書展」で取り上げようとしている、上村さんの「写真」についての調査・研究もなかなか進まないようだった。

そんな状態に転機が訪れた。2024年7月31日に行われた話し合いである。ここで展覧会開催の方針が大きく転換した。

宮城島のギャラリー「Sugarcane Room gallery + cafe」で行う上村さんの展覧会は「蔵書展」のつもりだったのだが、沖縄で開く最初の展覧会としては、東京で行ったSPACE23°C上村豊展の拡大版の展示の方が良いのではないかという方向に変わったのだ。

 

そもそも、「蔵書展」を岡田さんと根間さんが考えたきっかけは、上村研究室にあった壁一面の蔵書をとりあえず何処に置くかということが発端だったらしい。ひとまずではあるが、Library & Studio #504に書架を増設し収まっているので、これを最初の展覧会にすることは必須では無くなっていたようだ。

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ちょうどこの頃、昨年4月に亡くなった山城見信さんの作品の保管状態について長女の聡子さんから相談を受け、山原のアトリエに続き、浦添の自宅2階のアトリエを訪れた。この年度から沖縄県立博物館・美術館に前田比呂也さんが3年の期限付きで戻っていらっしゃっていたので同行していただいた。前田さんは迅速な判断を示してくださっていた。

前田さんには、浦添のアトリエ訪問の後、西原のLibrary & Studio #504 に寄っていただき、上村作品や資料の保管状態を見ていただいた。そこで、沖縄での展示の方針が最近転換したことをお話しし、協力をお願いしたところ、次の9月4日の話し合いから参加してくださることになった。

前田さんの参加は心強く、早速、「仮」にではあるが、Sugarcane Room gallery + cafe での展示の日程が2025年7月24日(木)〜8月3日(日)と決まった。

ドローイングを展示の中心とすることになったため、彼の沖縄に来てからの活動として、沖縄県立芸術大学で毎年開催されていた「ドローイング・コミュニケーション展」への上村さんの出品作をまずは確認しなければいけないと考えた。

まずは「ドローイング・コミュニケーション展」の幹事的な役割を担っていた宮里秀和さんに協力依頼することを決め、私が連絡することになった。

早速その夜、宮里秀和さんに連絡した。

 「今、上村豊さんの作品の整理を行なっていて、ドローイング類は、ほぼ、西原

 の私の図書室で預かっています。ドローイング・コミュニケーション展に出品し

 た作品がどれかを特定したいと思っています。

  宮里さんが持っていらっしゃる展覧会目録、作品写真や会場写真などをご提供

 いただけませんか?場合によっては、図書室で作品を見てもいただきたいです。

 何卒よろしくお願いいたします。」

すぐに翌日返信をいただいた。

 

 「お問い合わせありがとうございます。当時撮影した写真と目録が沖芸絵画専攻

 のPC データにあると思います。来週月曜日に行く予定があるので探してみます。

  永津先生のアトリエ図書室?へは11日(水)午前中か、再来週の17(火)、18

 (水)の午前が空いています。永津先生の都合が合えば伺います。」

 

 「お手数おかけしますが、データのご提供よろしくお願いいたします。

  データを頂いた後、上村さんの作品を一度確認した後、西原のアトリエ(図書

 室)に来ていただいた方が良いと思いますので、17日(火)にお願いいたしま

 す。」

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宮里さんに資料提供していただくだけでなく、自分にも何かしら「ドローイング・コミュニケーション展」のデータがないか探してみたら、自分のスマホで2017年の上村さんの展示を撮影していたのを見つけた。そこには、6点のドローイングが壁面に、桐生再演のカタログが台の上に立てて展示されていた。

また、東京展の準備段階でzoom会議をしていた時の資料から、2017年の「ドローイング展トーク」を見つけ、その展示について本人がしっかり説明しているのを確認した。

その内容は、とても興味深い。田中睦治先生から「是非、個人的なドローイング観を話してください」と促され、上村さんはこう答えている。

 

 「僕にとってのドローイングは、田中先生から学んだことでもあります。自分の

 作品の形態は、平面でなく、ある特定の場所に赴いて、そこの場所で制作活動

 をすることに一番のウエイトを置いているもので、いわゆるインスタレーショ

 ン。

  作品は展覧会で公開する時だけあり、その後は撤去してしまうことが多いん

 ですが、その場所に通う、その場所で時間を過ごすことが、割とテーマになっ

 ている。

  最終的な展示形態は、ドローイングとその時の作品を記録したカタログを展

 示させて頂いた。最終的なインスタレーションになる過程を記録したり、ド

 ローイングをすることで、その場所と自分の関係を確かめたりとか、あるいは

 自分の考察をなるべく展開させるというか、深めるというか、そういう一つの

 手段としてドローイングを使っています。」

 

更に田中睦治先生からの「素材でこだわっていることはある?』の質問に対して

 

 「そんなにこだわりなく.普通のスケッチブック。単純なというか、手元ででき

 る素材というか、鉛筆やペン、絵具は水彩絵具ぐらいしか使わなくて、手元でメ

 モできるぐらい。

  やりだすと、ドローイングのとらえかたはいろいろあると思いますが、僕の

 中では、作品として見せたりとか、画面の質をつくっていくのが目的でなく、

 あくまでも何か、自分とその回りの場所や空間との関係を日記のように書く、

 そういう感じですね。」

 

上村さんの制作姿勢が実に端的に語られている。この「ドローイング展トーク」は、知人の方が2017年のドローイング・コミュニケーション展のトークイベントに参加した際のメモとのことである。 よくぞ書き残して下さった。

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宮里さんからは、後日、作品目録のデータと写真データを送っていただいた。

すぐにそれを照らし合わせて、2010年から2017年までの出品作を写真とタイトル等のデータから出来るだけ特定しようと試みた。

2010年出品の〈緑の鉢ドローイング・シリーズ〉は大カルトンに4点ドローイングが並べられた展示である(Episode-05 参照)。送っていただいた資料と写真から、2011年の出品作が〈Raindrops / Polka Dots〉であることは分かった。2013年出品作2点の〈緑の鉢〉、2014年出品作〈qarqbaより〉〉も同様に判明。2015年出品作〈etude〉はまだ、作品の所在は確認出来ていないが、写真が残っているので、いずれ確認出来るだろう。不明なのは2012年の出品作〈Night   divides the day〉がどの作品であるのかということと、目録のない2016年が謎として残った。

9月17日に宮里夫妻に西原のLibrary & Studio #504 に来ていただいた。秀和さんには以前、来ていただいたことがあり、その時の話を聞いて奥様の裕美さんも興味を持ち一緒に来て下さった。送っていただいた写真以外に出品作はなかったかなど確認を済ませ、事前に照合した結果がほぼ正しいことを確認できた。2016年のドローイング・コミュニケーション展については、附属図書芸術資料館が改装中だったため、他大学に参加を求めない展覧会だったことが判明した。残るは2012年だけである。

目録に載っている〈Night   divides the day〉のデータは、「1094×790  紙、チョーク、ペン、他」。サイズや素材が該当しそうな作品が一点あるが、どうもタイトルとそぐわない気がした。

 

該当しそうなその作品は、上村さんが亡くなって告別式を行ったとき、式場スタッフの配慮で作品展示をさせていただいた時に展示した作品の一つである。この作品にはサインも裏書きもなかったので、横向きに展示をしてしまったのだが、後日、上村さんの撮影した写真を彼のパソコン上で調べていた時、イーゼルに縦向きに掛けてある写真が出てきて、「しまった」と思った作品である。

画面の大部分は、規則的に複雑に交差する赤い線で占められ、真ん中に少しの面積だけ黒の線の部分がある。〈Night   divides the day〉の「Night」と全体の雰囲気がそぐわないように感じたのだ。これは、宮里夫妻も同感で、裕美さんもしきりに英単語の検索をして下さっていたが、「題名がねえ…」と話し合っていた。

この2012年ドローイング・コミュニケーション展に一緒に出品していた長島瑠さんに、上村さんの出品作に記憶があるかをLINEで問い合わせてみた。

宮里夫妻は午後から用事があると帰ってしまったが、そぐその後、長島瑠さんから返信があった。

 

 「送っていただいた写真の作品が出品作品だったと記憶しています。上村先生がこれを夜に描いている姿を覚えています。」

 

宮里夫妻にこの回答を伝えると、早速、裕美さんから「わー 素敵なエピソード付きで判明しましたね〜✨」と返信があった。

詩人でもある長島瑠さんらしい答えで、この作品が〈Night   divides the day〉に間違いなさそうなのは分かったものの、作品とタイトルがそぐわない感覚は残った。

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帰宅してからもこのしっくりしない感じを抱えたままでいたのだが、ふと、〈Night   divides the day〉は一つの文章なのではないかと閃いた。

目録の印刷では、「Night」と「divides 」の間がかなり開いていたので、「Night」がメインタイトル、「divides the day」がサブタイトルなのだと思い込んでいた。

これが、一つの文章なら…、と検索すると、「Night divides the day 」は、「夜が昼を分ける」だった。それならまさにピッタリではないか。

更に検索では、ジャズのアルバムのタイトルとしても出てきた。George Winston のアルバム名である。

もしかしたら、George Winston の音楽からインスピレーションを得たものかもしれないと思い聴いてみた。

これは違うなと思った。

昔、上村さんが突然、私と妻の禮子にCDを1枚づつ誕生日プレゼントですと渡してくれたことがあった。

私が貰ったアルバムは、ビル・エバンスの「I Will Say Goodbye」。私は、ビル・エバンスの「Waltz For Debby」や「My Foolish Heart」などを時々聞くが、すごく好きなジャズメンという訳ではない。あの時は、なぜこのアルバムをくれたんだろうと不思議に思いながら、きっと上村さんの好きな曲があるか好きな演奏なんだろうと考えていた。

とすれば、「Night divides the day 」がタイトルのこの George Winstonのアルバムは、上村さん趣味では無いなと思った。

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George Winston のアルバムには、「Night divides the day 」の後に「: The Music of the Doors」とあった。「the Doors」?

あまり音楽には詳しくない私は、「the Doors」をWikipediaで検索してみた。

 

  ドアーズ(The Doors)は、アメリカ合衆国のロックバンド。1965年にカリ

 フォルニア州ロサンゼルスで結成された。

  メンバーは、ボーカル:ジム・モリソン、キーボード:レイ・マンザレク、ギ

 ター:ロビー・クリーガー、ドラム:ジョン・デンズモア。

  バンド名は18世紀の詩人ウィリアム・ブレイクが1790年から1793年の間に著

 した『天国と地獄の結婚』収録の詩から取ったオルダス・ハクスリーの著書『知

 覚の扉(The Doors of Perception)』に由来する。

 

これは近いぞと直感した。すると「Break On Through (To The Other Side)」の歌詞の一説に「Night divides the day 」があった。

 

You know the day destroys the night
Night divides the day
Tried to run
Tried to hide
Break on through to the other side
Break on through to the other side
Break on through to the other side, yeah

 

分かるかい、昼は夜を破壊するんだ
夜は昼を切り裂くんだ
逃げな
隠れな
向こう側へ突き抜けるんだ
向こう側へ突き抜けるんだ
向こう側へ突き抜けろ

 

この歌詞の一節が作品タイトルになっているのは間違いないと確信した。

そして、同時に、この作品は縦向きでなければならないことを痛感した。

真ん中の黒い線の集積は、周りの赤い線の集積〈昼〉を「分ける/切り裂く」〈夜〉なのだ。

つまり、バーネット・ニューマンの「zip」と同じだ。

とすれば、横向きはあり得ない。昼の空間を断ち切り、奥に沈み込んでいく縦筋のような黒い空間。

それまで私は、「イーゼルに縦向きに掛けてある写真」が出てきても、この作品は、俯瞰的空間の作品だと思い込んでいたので、云うならば、縦でも横でも良い絵画空間であると、この作品のことを理解したつもりになっていた。

タイトルを知り、これが全くの間違いであったこと、そして、初めて、このドローイングを全く違う絵画空間として認識出来たのだった。

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