ぬぬぬ会沖縄展 那覇市民ギャラリー 1988年
照屋禮子の織り
翁長直樹
古代の昔から人類は、糸を紡ぎ、織り、布をつくり上げてきた。基本は縦糸と横糸の網の目である。縦糸と横糸を交互に織り合わせることによって、しっかりした構造ができ、線が面となることによって、丈夫な衣服や、じゅうたんなど生活のあらゆるところで使われることができたのである。私達が日常で使う言葉の中に「織」ることから派生してきた言葉は無尽蔵である。様々な生活の中で起伏する感情や想いを織ることにたくして、それこそ人類の歴史は織り上げられてきたのであろう。
普段使用したり、着ている布に関しては、私達はほとんど感慨を覚えないし、それほど気にもとめないのであるが、明らかに人の手で織ったものに関しては織の仕組や風合いなど注意深く見たりする。現代のいわゆるファイバーワークといわれる仕事を見ると、かなり意識的に織の構造や布地の材質感、あるいは糸自体の線の性質を全面に出して来ていて面白い。
照屋禮子の仕事は伝統的な織りに現代のファイバーワークの要素が入ってきたもので、伝統的なものを生かしながら、織りの本質に迫ろうとするものである。
今回の作品は何も染めていないシルクに限定し、面としての布を全面に出しつつ、マチエールと織り自体の構造をも見る人に喚起させることを狙っているように思われる。
技法はほとんど平織で、横糸の工夫によって布の表情が変わる仕組みになっている。よく見ると横糸がぎっしりつまっている部分と、まばらな部分があり、作者によれば、密の部分から疎の部分に移るところでは精神の解放感があり、感情の激しい動きとコントロールがあるとのことである。
作品は計算された計画的なものと、割と自由に感覚にまかせて織り上げられたものに分けられる。細かくプラン通りに織り上げたものには、スリットを倍化していってかなり細かくして行ったものと全面に図柄が入ったものがあり、前者が知的で冷ややかな印象を受けるのに対して後者は暖かみのある、いわゆる「織物」という感じがする。自由に織られた作品は全体としてはそれほど強い個性を持っていないが、近づいてみていくと、横糸が太くなったり細くなったり、途中で切れたり、作者の感情や精神が時間と共に動くのが読み取れるような気がしてくる。戯曲「夕鶴」の中でツルが自分の羽(命)で愛する人のために身を削るおもいで織り上げたように、「織る」ことは作者の魂を紡いでいくものではないかという思いが湧いてくる。
TAKUMI ART NEWS No.23 1988年3月9日