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Recent Updates

CLIFF GAROでの個展開催

時々、比屋根までクリフさんのビールを買いに行っていたが、暫く行かないうちに、新しくお店を開くらしいという噂を聞いた。

行ってみたいなと思い立ち、調べてみたら高原に新店舗は既に開店していた。でも、その日は日曜日で、営業が19時までだったので、この時は行くのを断念した。

その後、インスタを見るようにしていたら、5月1日にヤンバルでさくらんぼを収穫したことが出ていた。5月末には、さくらんぼのビールをリリース予定とのこと。

寒緋桜のサクランボは、私も毎年、泡盛やいいちこに漬けて果実酒として楽しんでいる。これはもう行かねばと思った。

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5月12日にお店を探して瓶ビールを買いに行った。佐刀大地さんの個展が4月14日までで終わってしまっていたが、一点だけ残して飾ってあった。グリーングレーの壁によく似合っていた。

6月2日に妻と、さくらんぼのビールを飲みに行った。壁には前に来た時と同じ、佐刀大地さんの絵が一点とクリフさんの小品の絵が2点飾ってあった。

そこで、クリフさんから「平良亜弥さんがここで個展をすることになった」と聞いた。

さっきまで、この格好良いグリーングレーの壁には、自分の作品だったら、おそらくBOXのシリーズ(1983年)が似合うだろうなと妻と話していた。

亜弥さんの個展の話を聞いて、思わず、自分も開かせてもらえないかと売り込んでしまった。あっけないほど即答で了解していただけた。

その日の夜、ちょうど平良亜弥さんからLINEが来たので、自分もクリフガロで個展をすることになったと伝えた。

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6月22日から平岡昌也さんの個展「うんう(雲雨)名もなき樹」が始まった。蓄積された時の豊さを感じる良い展示だった。

自分の個展の位置付けを再考しなければと思った。

個展を開かせてもらえないかとお願いした動機は、単純にこの壁面にBOX作品が似合うだろうと思ったことだった。

でも、旧作を順序よく展示していきたいという思いは、以前からずっと持っていた。私は退職記念展を開催していない。

2019年3月に37年間勤めた琉球大学を定年退職した。

2012年に名古屋の葵倶楽部で個展を開いていて、これが結果的に沖縄在住30年の振り返りになったので、特に退職時に記念の展覧会を開催する必要性を自分自身の問題としては考えなかった。

また、自分でも全く予期していなかったことだが、定年退職する1年ほど前に突然、ポジャギを縫い始めることになってしまった。

そして、これが今後の作品展開の重要なものになるという予感があり、展覧会開催より制作の方を重視することにした。

結果、退職記念展を開かなかった。

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愛知県立芸術大学の同窓で、大分大学に勤めていた久間清喜さんは、私と同い年だが、彼は退職記念展を開いた。それを、先輩で愛知県立芸術大学の教員でもあった山本富章さんがわざわざ大分まで観に行ったという。

「沖縄まで行くつもりだったのに、永津は退職記念展を開かなかったのか」という山本富章さんの問いに、葵倶楽部個展のこと、ポジャギのこと、大学にギャラリーが無いことを伝えたら、「そういうものではないだろう」と小言を賜った。

退職にあたり、これまでの仕事をまとめて見ていただくのは「義務」とお考えのようだった。

ある意味、尤もなご意見なので、自分のHPを作り、これまでの仕事を誰でも閲覧できるようにした。

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2022年12月に、前田比呂也さんが「前田貝揃案」の展示「貴方を愛する時と憎む時」を山元恵一旧アトリエで開催した。

13日に伺った際、私の初期テンペラ作品が山元アトリエの石壁に似合うのではないかという話になり、17日にその作品を持って再訪した。

予想通り、石壁と作品の相性は、ピッタリだった。

その日ちょうど、喜屋武千恵さんも観にいらしていて、写真を撮るとき、石壁のところに作品を支えてもらった。

2週間ほど前の12月4日に、喜屋武さんの「赤土を使った絵具作りWS」に参加したばかりだった。

そこで赤土で作った絵具を使っての試作で、膠で溶いた絵具を和紙に染み込ませた瞬間、初めてテンペラ絵具を自製して使用したときの昔の記憶がありありと蘇った。

その喜屋武さんに、その初めてのテンペラ画を支えてもらっていることが何とも不思議だった。

このとき、前田さんは山元恵一旧アトリエでの私の展覧会開催を勧めてくださった。

退職記念展も最終講義もしていないので、この初期テンペラ画の展示を回顧シリーズ展の第一回目として、以降、順次開催し、各時代の作品について話をする機会を設けても良いのかなと思った。

しばらく考えたが、山元恵一旧アトリエと自分との接点はさほど無いので、初期のテンペラ作品との相性が良いというだけでは、このようなシリーズを続けていくのは難しそうに感じた。

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BOXシリーズを制作したとき

クリフガロの壁面がとても素敵だったので、勢いで、昔のBOXシリーズ(1983年)を展示してみたいと言ってしまったが、改めてこれを展示する意味を考えなければならないと思う。

過去の作品を順次テーマに沿って公開していくとすれば、1983年のBOXシリーズの位置付けはどうなるのか。

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1983年の4月、沖縄に来て1年経った時、私は那覇市久茂地にあった県民アートギャラリーで、永津禎三絵画(1976-1983)展を開いた。

大学4年次(1976年)から琉球大学赴任後1年までの7年間の作品から選抜した85点を展示し、まずは自分がどういう作家かを観てもらおうと思った。

そこに、宜野湾市にあった画廊喫茶「匠」の宮島都紀雄さんが来てくださり、「匠」での個展を誘ってくださった。

「匠」はこの後、1986年から自主企画運営画廊に変わり、私はそこの企画担当になるのだが、そのことは別にまとめてあるのでそちらを読んでいただきたい。

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BOXのシリーズはその画廊喫茶「匠」で、この年11月の個展に出品した作品だ。

この個展は県民アートギャラリーでお披露目した以降の新作だけで臨んだ。

テンペラのタブロー以外に、沖縄の土を使った絵具の水彩画、浮世絵を使ったコラージュなどと一緒にこのBOXシリーズも並べた。

タブローに収斂していく以前の私の様々な興味を観てもらいたいと思った。

沖縄に来て、初めて住んだのは宜野湾市の外人住宅だった。近くに、米軍払い下げの店がいくつもあって、これは何に使うんだろうと思う不思議な形の道具や小物が売られていた。

東京での展覧会に参加したときは、京橋にあったフライフィッシングの材料屋に入り浸った。鳥の羽根や翼、動物の棘などを売っていて、どれも綺麗で見飽きなかった。沖縄で身近に生えている植物の形にも興味を持った。吊るしたり瓶に入れて乾燥させ、海岸で拾ったサンゴや漂流物などと一緒にコレクションしていた。

こういったものを、やはり米軍払い下げ屋で安く買ったスチールチェストに収めていて、1年でほぼ満杯になってしまっていた。

こんなタブローになっていくフォルムの源泉のようなものを、そのままBOXに収めてみようと思ったのだが、実は、このBOX作品で一番重要なのはベースになっている暗緑色の和紙なのだ。この紙がなかったら、BOX作品を作ろうと思わなかった。

 

この暗緑色の和紙は、樹脂テンペラの絵を描くために下地処理したものだ。樹脂と乾性油、揮発性油の混合メデュームで油絵具をゆるく溶き和紙に染み込ませ、その上から樹脂テンペラの白を薄く被せてある。調製の仕方を教えていただいたのは田口安男氏である。初めて作ったときに、染め上げられているようなその発色や風合いに魅了された。

しかし、作りながら紙に油絵具を乗せて大丈夫なのだろうかと心配にもなった。パルプを主成分にした紙であれば、油絵具の展色材である乾性油で酸化し、黄褐色に焼け、時間が経過すれば朽ちてしまうのだが、ドーサ引きされた和紙やサイジングされた水彩紙なら大丈夫ということらしかった。

この下地処理した和紙の上に、集めていたコレクションを置いてみたら、とても美しくそれぞれを引き立て合っていた。それでBOXに配置収納して作品にしてみようと思った。

とは言え、保存性に疑問の残る、油絵具で染めた和紙、鳥の羽根や乾燥した植物などが組み合わされたものたちである。どれくらい作品として変わらず保存できるのか、とても不安だった。それで、個展では全て非売にした。

個展の前に7点、個展が終わった後1点を制作したのでBOXシリーズは合計で8点になる。2点は移動中に落とすなどして物理的に壊してしまったが、6点のBOXは、40年経ったけれど、ほぼ制作時と変わらない状態で今も手元にある。

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テンペラ、ことはじめ

BOXシリーズのベースに用いることになった暗緑色の和紙は、1983年7月、琉球大学美術工芸科のテンペラ画法集中講義を担当してくださった東京藝術大学の田口安男教授に調製の仕方を教えていただいた。

それまで6年間、私はテンペラ絵具で絵を描いてきたが、その技法は完全に独学だった。

大学4年生の時、1977年に西武美術館で観たフンデルトヴァッサー展で、「テンペラ絵具」というものを初めて知った。

ちょうど、卒業制作の終盤だった。アクリル白や水彩、チョークでエスキースを制作している時は活き活き描けていたのに、キャンバスに油絵具を使い出すと全く上手くいかない。スランプだった。油絵具の乾燥速度と私の制作速度がまるで噛み合わなかった。乾燥が早くてもアクリルカラーはそのビニールっぽい発色が嫌いだった。

フンデルトヴァッサーの絵を観て、これだと思った。

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卒業制作が終わり、大学院に入る前の3月から、技法書を頼りにテンペラ絵具の調製、下地作りを試みた。まだその頃はほとんど情報がなく、周りに誰もテンペラの技法を知る人は居なかった。4月になっても大学院にはほとんど行かずに家に篭って絵具の試作を続けた。

いろいろな技法書を調べても、ほんの数行の記述しか無く、それもかなり不確かなものだった。

フンデルトヴァッサーはウィーンの作家なので、その絵具は樹脂テンペラ絵具らしかった。ドイツに留学歴のある脇田和のエッセーが参考になった。

顔料も今のように瓶入りの製品は販売されていなかった。東京上野の浦崎画材など限られた店でしか購入できなかった。

テンペラ・メデュウムの調製は失敗続きで、メデュウムと顔料を混ぜ合わす時、酷い時は卵水の中に油絵具の塊が出来てしまうほどだった。

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それでも、4ヶ月ほどの試行錯誤を通してなんとか作品を制作できそうなところまで準備できた。

時間をかけて作り上げた雪華石膏を膠で溶き、和紙を貼り込んだ麻布に地塗りした画面は、吸い付くほどきめ細やかで美しい下地になった。

テンペラ・メデュウムは全卵とシッカチーフ・ド・ハーレムを攪拌したマヨネーズ状のもの。このメデュウムを水練りした顔料と混ぜ合わせ絵具とした。

雪華石膏のきめ細やかな下地に、自製したテンペラ絵具を置いた瞬間の、スッと吸い込まれるように定着した絵具の美しさを、今でも忘れることはない。

その一筆一筆に、驚きと感動があった。

そうして出来上がったのが2点の作品(2点同時に試行錯誤しながら制作を進めたので)、〈聖者〉と〈楽士〉である。

思い返してみると、テンペラ技法を独学で獲得したことは、得難い経験だった。もちろん、6年後に琉球大学の集中講義で学生と一緒に田口安男氏から「樹脂テンペラと油彩の混合技法」を学んだ経験も得難いものではあるが、技法書の不確かな記述だけを頼りに、失敗を繰り返しながら試行錯誤を経て独自の技法を獲得したことが、私の画家としての起点となったのではないかと思う。

〈聖者〉と〈楽士〉は描き終わってすぐに、昭和会(日動画廊)の予備審査に出品したら入選してしまい、翌年1978年の第13回昭和会展に招待されることになった。

まだ、作品のスタイルも固まっていない、どんな絵をこれから描いていくのか自分でも分からないような状態だったが、楽しみながら昭和会展に向けて制作した。

かなり初期ルネサンスに影響されてしまったが、金箔を用いた〈堕天使〉と、その年の年賀状として手書きしたタントラ風の〈5枚の年賀状〉は、やはり、テンペラ絵具に導かれ驚きを持って制作した思い出深い作品である。

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回顧シリーズ展の「ことはじめ」に

始まりは、BOXシリーズを展示してみたいという素朴な動機だったのだが、このように展示する意味を再考してきたら、このクリフガロでの展示は、回顧シリーズ展の初回と位置付けるべきだと思うようになった。

そこで展示すべきもの…、まずは、画家としての意識の起点となった、独自に獲得した技法による初期テンペラ作品たち。

これが最初の「ことはじめ」

最初から展示するつもりだったBOXシリーズについても、改めて考えてみた。

沖縄での生活を始め、その時出会った様々なモノたち。そして、「樹脂テンペラと油彩の混合技法」という新たな技法で出会った特別な和紙。その下地処理による発色や風合いの魅力で、これらをBOXとしてまとめてみたくなった作品たち。

テンペラ技法による新しい展開を始めた、次なる「ことはじめ」

そして、何と言っても、このような回顧シリーズ展を開くべきと思ったきっかけを考えなければいけない。それはやはり、退職記念展を開かなかったことにあるだろう。

もしも、退職の間際にポジャギを突然縫い始めなければ、退職記念展を開いていたかもしれない。

ポジャギは、自分にとっても全く予期していなかった「ことはじめ」である。

ポジャギを突然縫い始めなければ、退職後の生き方さえ、随分違った形になっていただろう。

そして、今回のクリフガロでの個展が、本当に、回顧シリーズ展の「ことはじめ」となれることを、まさに今、願っている。

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【ここまで「CLIFF GAROでの個展開催」2024年7月15日】

個展会場で研究会をすることになった

ホームページのRECENT UPDATESに7月中旬、〈CLIFF GAROでの個展開催〉を書いていた丁度その頃、前田比呂也さんからLINEがあった。

 

「突然ですが、研究会ですが、私が美術館の紀要に書いたものを使って、永津禎三論はどうですか? それぞれの表現を語る、というシリーズの最初ということで」

 

「琉球美、造形研究会」の定例研究会のスケジュールを考えていた丁度そのタイミングでもあった。

8月と10月の発表を予定していた平川信幸さんのご都合が悪くなり、急遽、8月の発表は佐藤文彦さんにお願いして私と二人で発表することにし、10月の発表を仲間伸恵さんと相談しているところだった。

「琉球美、造形研究会」の定例研究会が発表者に過重な負担にならないよう、しかし、これまでの発表内容から発展・深化する内容にしていきたいと相談していた最中だった。

前田さんの申し出は有り難いものだったが、自分がテーマになることには恥じらいもあった。

 「定例研究会のご発表を提案いただき、テーマは恥ずかしいですが、有り難いです。私も内間安瑆や安次嶺金正のその後の調査を踏まえた

 発表を考えてみようと思います。

 ご発表の時期はいつが宜しいでしょうか? これまで、二回連続での発表が定番化していますが、単回か二回か如何しましょう?」

 

 「すぐでも、私は大丈夫です。手探りで進める感じで、永津先生と対談できればと思います」

 

 「ちょうど、クリフ・ガロで10月4日(金)から旧作の展示を行う予定です。以前、山元恵一旧アトリエで前田さんが展示された時に、展示

 を勧めていただいたことがありましたね。あれからずっと考えていて、私は退職時にまとまった展覧会をしなかったので、少しずつシリーズ

 で展示を続けて、それぞれの時期で考えていたことをお話しようと考えています。その初回の展示とするつもりです。

 8月の定例研究会は、当初、平川さんに「御後絵」の発表をして頂く予定でしたが、延期になりました。それで、佐藤文彦さんにお願いし、

 私と一緒に、〈返還された御後絵をめぐってⅡ − 4月以降の報道を踏まえて − 〉で25日(日)に開催する予定です。

 10月の定例研究会については、仲間伸恵先生に、所蔵されている、昭和14年発行の柳宗悦『琉球の織物』をマイクロスコープも使って見る

​ 会を打診中です。まだ時期は確定はしていません。

 その他には、実現出来るかどうか分かりませんが、大宜見村旧役場建築の見学会を交渉するよう、玉城真さんにお願いしています。」

 

 「先生の展覧会に合わせて研究会やるのはどうですか」

 

仲間伸恵さんに確認をとった後、クリフさんと相談して、10月8日にクリフ・ガロの展覧会場で研究会を開かせていただくことになった。

10月8日開催を決めたので、ひと月前には研究会ホームページで告知しなければならない。前田さんにタイトルを決めてもらうことにした。

前田さんから送られて来たタイトルは、『永津禎三 モチーフと技法 −いくつかの「ことはじめ」』。

私は、前田さんの紀要論文を再度読み直し、ホームページの案内文を考えた。書き上げた文面は…

 

  前田比呂也さんが、以前執筆なさった「永津禎三 モチーフと技法 −絵画という空間への挑戦−」(『沖縄県立博物館・美術館 美術館

 紀要第7号』2017年)を元に発表されます。

  今回、会場となるCLIFF GAROでは〈永津禎三個展「ことはじめ」〉を開催します。(会期:10月4日〜20日)■ nagatsu-​flyer.pdf

  展示は小規模な回顧展ですが、前田さんの論文執筆後のポジャギ作品「Work 2019-1」や論文では触れられなかったBOXシリーズ(1983

 年)も含まれており、新たな対話が生まれることを楽しみにしています。(永津禎三)

 

初めは、前田さんの発表が中心になるものと思っていたが、どうやら「対談」のようだ。となれば、あの美術館紀要論文後の制作のことを聞かれる可能性が高いと思い、改めて思い返してみた。

美術館紀要論文のためのインタビューを受けたのは2016年頃だった。ここでは、2012年のTurbulence シリーズまでを語っている。

2017年12月に突然「絵画としてのポジャギ」を縫い始めるまで、自分としてはこの期間に、琉球大学の退職を控え、琉大教育学部紀要にこれまでの講義ノートをまとめ直して論文掲載することに集中してきたと思っていた。

しかし、よく考えてみたら、葵倶楽部での個展を終え、沖縄でも展示をしようとか、Turbulence シリーズのバリエーションを増やそうと考えたり、いろいろ試作をしていたことを思い出してきた。

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その中でも特に面白いと思っていたのが、紅型の「子ども着」だ。

2012年に沖縄県立博物館・美術館で開催された「沖縄復帰40周年記念 紅型 琉球王朝のいろとかたち」で最も印象的だった紅型が〈染分地遠山に鶴竹梅模様子ども着〉である。

大人用の着尺の幅を切り詰め、丈も繋いでとても大胆で美しい構成となっている。

Turbulence series Katagami でこのような展開、つまり、通常の着尺の状態(大人用)の作品と、その着尺の幅や丈を切り詰めて再構成した状態(子ども用)の作品を対比させられないかと考えていた。

また、Turbulence からは離れてしまうが、Katagami のバリエーションとしてより面白い展開を行おうとした作品のベースとして、型紙も現存する紅型として選んだのが、〈染分地遠山に椿柴垣梅桜菖蒲模様衣裳〉である。

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しかし、何故かこの試作は挫折している。何種類かTurbulence シリーズと同様の画面形態(胴衣に近い形)に合わせてこの型紙の組み合わせを考えているが、途中で断念している。

今となっては、何故継続しなかったのか自分でも不明だが、おそらく、このような色面的な紅型を基にしてでは、元の造形を乗り越えられそうにないと思ったのではないだろうか。

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これらのことを思い出しながら、今回、改めて、「沖縄復帰40周年記念 紅型 琉球王朝のいろとかたち」の図録を見直していて、直ぐに作品化するということではないが、何か大きな可能性があるように感じ始めている。

まず、この子ども着の着尺がそのまま使われている衣装(大人用)が、図録に収録されていることに今頃気がついた。

それは、〈染分地遠山に鶴竹梅模様衣装〉で子ども着と共に沖縄県立博物館・美術館の収蔵品である。

この衣装は、模様が左右対称に構成されていて、正直、あまり面白くない。子ども着の大胆な破調ともいうべき構成力に比べると、実に当たり前なのだ。

また、作品化しようとした型紙の〈染分地遠山に椿柴垣梅桜菖蒲模様衣裳〉の図版を見て、縫い代がかなり大胆に取られていることに、これも今更気づいた。

〈染分地遠山に椿柴垣梅桜菖蒲模様衣裳〉も型紙と共に沖縄県立博物館・美術館の収蔵品である。

今年(2024年)5月13日に「琉球美、造形研究会」で〈花色地小紋模様衣裳〉を熟覧する見学会を開催することができた。2年前に東京国立博物館で「沖縄復帰50年記念 特別展 琉球」の展示作品でこの衣装を観て以来、ずっと抱いてきた造形上の疑問をかなり解消することが出来た。

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次年度の「琉球美、造形研究会」で、〈染分地遠山に鶴竹梅模様衣装〉と〈子ども着〉、〈染分地遠山に椿柴垣梅桜菖蒲模様衣裳〉とその型紙を熟覧する見学会を是非開催したいと思い始めた。前回の見学会で得た知見と併せ、何か大きな造形上のヒントが得られそうな気がしている。

 

それから、私自身、2017年12月に、突然「絵画としてのポジャギ」を縫い始めたと思っていたのだが、このような経過を思い起こしてみると、ポジャギ制作は、私の作品の色面的展開の一つの形のようにも思えてきた。挫折したり、形にならなかった習作も、もしかしたら無意識のうちに自分の中で勝手に育っていたのかもしれない。

 

10月8日の研究会では、2016年頃にインタビューを受けていた時、当時の習作について、私が何か語っていなかったかを、前田さんに伺ってみるつもりだ。

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【ここまで「個展会場で研究会をすることになった」2024年9月16日】

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